批判し続けることの罠

良くないこと、良くない傾向のものは批判されるべきである。それは「自分」であっても同じで、良くないこと良くない傾向が批判されれば、自分で気がついていなくても反省をすることが出来、それで良い方向を向くことが出来るからだ。だから、批判を恐れてはならない。まぁ忙しい時はそんなのが面倒臭いからスルーしておくわけだが、忙しい時は「スルー」をするだけであって、「恐れる」べきものじゃない。

そういった批判も、度が過ぎると「disり」になり、さらに進むと「炎上」や「粘着」になる。批判される側は反省なり取捨選択なりしておけばいいが、批判する側は正しさを要求される。だから、実は批判をする側の方が難しいはずだ。「気にいらない」という感情をそのままぶつけても、「それはそれ」でしかない。まー、そんなものでも血肉にすることは可能だから、批判された側にとって無駄ということもないが。

批判はその元となることがらが是正されるまで続けないと意味がない。その間、「正しく」批判し続けなければならい。ところが、正しく批判し続けることは難しい。なぜなら、批判者も「人」であるから、

  1. 自己撞着してしまいがち
  2. 状況の変化に追従を忘れがち
  3. そもそもその批判が正しいか忘れがち

ということが起きるからだ。特にマズいのは

自己撞着

だ。つまり、「悪いもの(たいていは自分よりも偉い)を批判している自分」にうっとりとなってしまい、批判のための批判を続けてしまいその結果、自己矛盾に陥ってもそれに気がつかないでいるということだ。「対象を批判する」という行動そのものに縛られてしまって批判を続けるということもある。対象が変化し続けることを忘れて、同じ行動をとり続ければ、いつしかいろんなことがズレて来る。

極めて当然のことだが、たいていの評論家は半可通だ。「スポーツ評論家」の多くは「元現役」だったりするので、いわゆる半可通そのものではないが、それでも「現現役」ではないから、直接の当事者でない。「元なんとか」な評論家であってもそうだから、現職経験のない評論家はそれ以下だ。もちろん、直接の当事者は批判は出来ないから(当事者が評論家然とするのはナンセンスだ)、評論家が当事者であっては困るが、あまりに距離が離れてしまっていると、

ミソとクソの区別がつかない

ことになってしまう。ミソとクソの区別なんて、多分2mも離れりゃ無理だけど、まるっきり別物だ。でも、幼児に遊ばせると、きっとミソもクソも同じだ(あんまり想像したくない図なんだが実際そうなる)。

そういった環境にありながら批判し続けるには、うまく状況をフィードバックしていないといけない。現状に追従しておかなければ、当初は正しい批判だったものが、いつの間にか「批判を正当化し続けるための批判」に変質してしまう。極端な場合、相手が批判されるようなものでなくなってしまっていたら、批判をするということ自体が間違いになってしまう。

何事も1度「良いこと」をするのは難しくない。勢いとか「ため」とかあるから、「一発目」はうまく行く。しかし、それを続けるのは容易ではない。同じテンションを維持することも容易ではないが、「良いもの」であり続けることが難しいのだ。

そんな目で、いろいろな「批評系」のblogを見てみると、なかなか趣き深いものがある。まぁdisりってのはウケやすいというのもがあるから、特別に見識を持たなくてもお手軽にアクセスを稼ぎやすいというのはわかるのだが、それなりに評論家として名の売れている人が中途半端に批判し続けるのはどうしたものか。