「初音ミク版やらないか」とweb 2.0

病気で寝てる時にYouTubeを見まくった結果、初音ミクなものに触れ、それからニコ動とか見て思ったこと。わかってる人にはきっとあたりまえのことでしかないんだろうが。

web 2.0に「生産者」として乗れる人ってのは、いろいろなものが

素材

に見えるのではないか。また、web 2.0的に出来るものと言うのは、「完成品」ではなくて「素材にできるもの」ではないか。

たとえば、「インスタントラーメン」が置かれている時に、それを茹でて食うだけしか考えつかなければ、web 2.0的なものに出来ない。それに卵入れたりとか、野菜入れたりとかってのも、まぁ誰だってやる。ところが、あれを鍋に入れちゃう「軍隊鍋」みたいなものとか、麺だけ使って焼きソバにしちゃうとかってのは、すぐには思いつかないし、下手すりゃ失敗する。その辺をうまく思いついたり、うまくアレンジするのがweb 2.0的能力。

また、そういった能力がある人に対してであっても、「フランス料理のコース」とか出しても、アレンジのしようがない。

実は、これは「初音ミク版やらないか」を見ていて思ったこと。最初に「初音ミク版やらないか」を見て、だんだん元を辿ってみた。

元は、久住小春の「バラライカ」という曲らしい。これのPVに「いさじ」なる人が「やらないか」という歌詞にして歌を入れる。この音声を使って、「阿部ダンサーズ」なる動画がついたものが出る。その後、この音声の部分を「初音ミク」にしたものが出たようだ。結局、元の「バラライカ」で残ったのは曲だけだし、「いさじ版」で残ったのは歌詞だけ。とは言え、こういったmush upの連鎖の結果、「初音ミク版やらないか」が出来たわけだ。

これが元々の「バラライカ」が、「ライブのDVD」とかであったら、こういったことは起きなかっただろう。「ライブ」というのはそれ自体で完成品だから、「フランス料理のコース」みたいなものだ。PVだと「歌」と「映像」を別々にとらえることが出来、それらは見る人が見れば「素材」だったようだ。あとは、素材単位で入れ替えられて行き… ということ。

何が残り、何が生きて、何が消え、どう変化したか… ということを思うと、なかなか趣き深いし、「web 2.0」なるものを誰がうまく扱え、どんなものが扱われるのかというのがよくわかる。