「いい子」が進歩を止める

「Hackintosh」なる遊戯があるらしい。Mac OSをMac以外で動かす遊びだ。

私自身はあまりMacには用がないのだが(でも最初に日本に輸入されたMacを使ってたのよ。XLだけど)、たまにMac OS上でのテストとかしたくなるので、「VMでMacが動かねーかなー」と思っていた。今は必要な時は貸りて来るのだけど、手元で動くといいなと思っている。使い込むわけじゃないから、VM instanceで十分なんだけど、Macはそれが出来ないことになっている。

そこにHackintoshだ。これは便利と思ってイメージを落として来たのだけどよくわからないのでぐぐってみる。そうしたら、

trial and error Hackintosh

というページが目に止まる。内容は「やってみた」程度なので、あまり参考にならないんだけど。

ところが、そのページのコメントが酷い。もちろん「Hackintosh」なる遊戯はAppleのライセンス違反には違いないので、ライセンスを正しく運用する限り、この行為は許されない。だから、否定的なコメントは正しい。極めて「いい子」的な意見だ。

「正しいこと」は正しい。これは当たり前だ。また、正しいことをする時には責任は負わなくてもいい。それはルールを決めた人がその正しさの裏付けをしてくれるのだから、自分で余計な判断をする必要がないからだ。だから、こういった「ちょっと悪いこと」にはコメントスクラムが発生して、悪くすると炎上する。正義を笠に着て、悪を倒す。ちょうど

ウルトラマン

みたいな筋書になる。「ウルトラマン側の人間」にとっては、怪獣がやっつけられるのだから、すっきり快感だ。

ところが、「チャレンジ」のかなりの部分は「悪事」から始まる。もちろん「正しいことの延長」としてのチャレンジがないわけじゃない。でも、全てのチャレンジが正しいことの延長じゃない。身近な例では、

日本のインターネットがどう始まったか

を思い起こせば(わからない奴はぐぐれ)、今は「正しいこと」とされているインターネットでも、最初は規則違反法律違反だったのだ。

ルール(規約規則法律…)に決められた「正しいこと(裏返してもいい)」の様々なことは、

ルールを作った人にとって都合のいいこと

である。もちろん「作った人」の主体が何であるかは様々であるが、必ずしもそこに自分が含まれているとは限らない。つまり、必ずしも自分たちに幸福をもたらす「正しいこと」ではないのだ。意地悪な言い方をすれば、そういったルールを守れと強要する「自分側」の人達は、

自分の幸福を捨てて他人の幸福を追及する

という、とても麗しい自己犠牲に満ちた人と言える。

もちろん「困るのはお前だけだろ」とばかりに、衆を頼んでルール違反するのは、それはそれで馬鹿げた行動だけど、思考停止的に「何が何でもルールを守れ」では、ものごとの進歩を止めてしまうのではないか。

ということを思っていたら、ちょうど

ご機嫌な人を見ると、不機嫌になる社会

こんな記事が出た。私がグダグダ書くよりも、糸井重里氏のユーモアに満ちた言葉の方がわかりいいだろう。

管理がないとか、無法だとかというのは良くない。とは言え、あらゆる相互監視の社会が「楽しい」と思えるのだろうか? それが「楽しい」と思える人は、まずインターネットを使うのをやめてくれ。「犯罪者」の築いたものは使うべきじゃないよな。