考古学

芭蕉の古い手紙が発見されたそうである。

まぁこれで色々新しいことがわかるとゆーことで、その関係の人は色めき立っているようである。確かにそれは良いことで、別に文句を言おうとは思わない。しかし、その調べ方にちょっと気になるところがあるのだ。

この手紙には何個所か紙を貼って修正した部分があると言う。当時は墨で書いていたのだから、こうするしかなかったのだ。ところが、それを研究者は裏から光を当てて元に何が書いてあったか調べ、そこから芭蕉の推敲の様子を知ろうとかと考えているらしい。しかし、これはよく考えれば、

大変失礼なこと

ではないかと思う。なぜなら、元を書いた人(芭蕉)は、その部分は自分が他人に見せたくないから紙を貼って修正したのだ。つまり、本人はその下に書いてあるものは

見て欲しくない

のである。それをあれこれやって調べようと言うのは、冒涜ではないのか?

確かに色々研究したい気持ちは理解出来る。しかし、そういった本人が見て欲しくないと思っていたものを、「死人に口なし」とばかりに覗くというのは、とても趣味の良いことだとは思えない。「著作者人格権」みたいな話にする前に、「エチケット」とゆーことを考えてみてはどうなのだ?

同じように、古いミイラやら遺体が発見されると、あれこれ調べ上げて「この人の死因は」とか「○○を食っていて…」みたいなことを発表したりする。これも本人が生きていれば、

そんな恥ずかしいこと言わないで!

と言うに違いないことである。死因や何を食っていたかは、現代人にとっては、かなり秘密にしておきたいプライバシーであるのだし。

確かにミイラなんぞは研究者から見れば、単なる研究材料でしかないだろう。しかし、それはかつて人格を持っていた人が生きていたという証拠でもある。いくら古いものだからと言って、その人格を否定してしまうのはどうしたものか。生きてる時に嫌なことは、死んでからだって嫌なのだ。

今日本の古代史をやっている考古学者は、天皇陵を発掘したいのだそうだ。そして、それは宮内庁が「天皇の墳墓であるから」という理由でさせないのだそうだ。確かに宮内庁の態度は良くないとは思う。しかし、考古学者の今までの暴挙を見てみれば、そう言うのも無理はなかろう。どうせあれこれ調べ上げたあげくに、「仁徳天皇は実は腹上死だった」みたいなことを発表するに違いないからだ。

日本語で「ずっと秘密にしておく」ということの表現で「墓場まで持って行く」というのがある。つまり、墓場に持って来たものは当人の第1級の秘密なのである。それを「死人に口なし」とばかりにほじくり返すのは、あまりお行儀の良いこととは言えないだろう。

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