手話を始めたわけと手話サークルを抜けたわけ

って、もう20年以上も前の学生時代の話だったのだが。

201号室さんが私が「たんぽぽの家コミュ」にいるのを不思議がっていたので、ここ数日の行動とも関係があるので書いてみる。

学生時代、私はいわゆる「ボランティア活動」なるものをやっていた。最初は無邪気に障害者施設なんぞで遊んでいたのだが、そのうちいろんなことに手を出すようになった。お陰で右翼や労組や政治、新聞が嫌いになったのだが、これは別の話。

まだ手話ができなかった当時、講演会やイベントがある度に、手話通訳を頼みに行っていた。その度に頭下げて頼み、予定の調整をし… なんてことがあったので、「えーい面倒だ。自分でやりゃいいんだろ」と手話サークルに通い、1年くらいで人前で同時通訳できる程度にはなった。

その頃の松江の「手話関係者の団体」と「それ以外の福祉関係団体」は、当事者団体もボランティア団体もまるっきり別で、人的交流はまるっきりなかった。大学のサークルあたりも、なんとなく反目しあっててたりしていたらしい。それまでは、両方に顔を出す人は行政関係者くらいなものだった。

しかし、私が両方に顔を出し、双方の友達を誘うようになり… としているうちに、だんだん両方に関わる人達が増えて、それぞれの敷居が低くなった。

そうしているうちに「わたぼうしコンサート」なんてゆーものに関わるようになっていた(「わたぼうしコンサート」については適当に調べて下さい)。本番の「わたぼうしコンサート」なるものは、奈良(本家)でやるのも地方でやるのも、まぁ要するにコンサートの時間の範囲なのでどうとでもなるのだが、いわゆる啓蒙活動のためにいっぱいミニコンサートをやる。その度に手話通訳者を必要とされた。幸い既に相互の敷居が低くなっていたので、気軽に頼めるようにはなっていた。まー、どうせ若くて元気のある若者ばかりなので、無茶もできたし。

# 他に「わたぼうし」で私がタッチしていたのは、楽譜起こしと音響屋との調整。音響屋は後に上司となる学校の先輩だった

まぁここまではいいんだが、本番の会話の通訳者が文句を言い始めた。いわく「事前に台本をもらってないと内容保証ができない」というのだ(曲の方は作ったのを覚えるからそう難しくない)。彼女は私よりずっと先輩であるので、言っていることの意味がわからないではないが、あんなものの「台本」なんて用意するのは不可能だ。あげくに「そういったものは自分のサークルでは受けられない」とか言い出した。正直、困ったなぁと思ったものだ。

とは言え、私はそれまでたくさんのミニコンサートの通訳をやって来ていた経験からすれば、「彼女が言う程難しくはない」ということを知っていた。だから、「何とかなるものだ」と説得しようとしたのだが、彼女は頑として拒否する。「だったら誰が耳の保証をするのだ」と言っても、「責任が取れないから」の一点張り。話が平行線になり、「あー言えばこー言う」状態だったので、さすがに私もキレて、

じゃあやらなくていい。私一人でやってやる!

と言い放つと共に、

私が勝手にやることだからサークルは抜ける

と宣言した。いくら私が下手であっても、「何もない」ことから比べればはるかにいい。それにまぁそれまでの経験があるから、少なくとも人並以上にはできるはず。

当日は結局一人で会話部分の通訳をやることになった(当時の松江で手話サークルに所属しないで同時通訳なんてできる人はいない)。仲の良い連中は「大丈夫か?」と心配したものであるが、高々2時間の通訳なんだからどうってことはない。それまで「24時間耐久通訳」なんてのを炎天下でやってたりもしたし。

ちょうど高専祭と日程が重なっていて徹夜続きの後だったので、「ここで倒れりゃ格好いいよなぁ」とか思いつつ、もちろん手が止まったりすることもなく、何事もなく終わった。

まーそんなわけで老舗の手話サークルから抜けてしまった私は、その後歌の方の通訳をやっていた短大生、看護学生、大学生、OLを集めて、「やらなきゃいけない時にはちゃんとやる」という手話サークルを作ったのだった。

「女の園でもモテない君はモテない」ということを知ったのも、このことからだ orz