愚痴を吐きましょう

これは、「大人向け」の話。

いつもグチグチ言ってるような「ガキ」は読んではならない。

人は愚痴を吐く。それは、「大人の常識」では「弱音」と呼ばれ、あまり誉められたものではない。まぁそれは表向きはそうだし、「強くあれ。雄々しくあれ」とYHWHも言っておるわけだが、そうそううまく行かないのが人である。

何かやっていれば、どうやったって弱音は出て来る。何しろ「何かをやる」ということは同時に「失敗をする」ということだ。いかに強い人であっても、失敗をすれば凹む。もちろんそれと同時に闘志がわくのも人であるが、そこでまた失敗をすれば凹んでしまうもの。まぁ1度や2度で凹むのもどうかと思うが、ずっと続けば凹まない方がむしろ異常だ。

それゆえ、

弱音を吐くのは、何かをやっている人の特権

だとも言える。いつもグチグチ言うのはどうかと思うが、たまには愚痴を吐いてみるのもいい。

実は愚痴にはいくつかの「効能」がある。たとえば、

  • 「ガス」が抜ける
  • 「外」が見える
  • 空気が見える

なんてのは、愚痴の効能だ。

「大人」はタテマエで生きるものだ。人前ではタテマエを通すのが大人の行動だ。とは言え、人には人の「尊厳」がある。タテマエと本音が背反している時、「尊厳」はsuspendされている。そこをいつまでも解放しないでいれば、「尊厳」は萎縮し、精神を破壊する。そうならないために「ガス抜き」があるわけだ。

「大人」はタテマエで生きる。とは言え、「タテマエ」とは常に取りつくろったものでしかない。全ての現象や行為がタテマエだけで片付くとは限らない。タテマエの外側に真理や解決があるかも知れない。それは直接「本音」から出て来るわけでもないだろうが、本音を見せることでタテマエの外に目が向くようになる。

問題を解こうとする時、常に問題だけを見ていて解けるとは限らない。思いもよらぬ「迂回ルート」があるかも知れないし、実は問題は問題じゃないかも知れない。そういったものは、形式ばったタテマエばかりの中からは、なかなか出て来ない。ふと現実から目を逸らしてみると、意外な解決が見つかることも少なくない。

「タテマエ」とは常に取りつくろったものである。また、常に「他人の目」を意識したものでもある。そこには「空気」とか「行間」といった、生々しいものはなくなっている。いや、なくしてこそのタテマエだ。ところが、それは同時に

タテマエは情報の全てではない

ということでもある。また、とりつくろう過程で(=他人の目を意識することにより)、重要な情報を落としてしまっていることだってある。「ことだってある」どころか、「形式的な報告」の類はほとんどが重要な情報を欠落させていると言っても過言ではない。

プロジェクトの進捗が思わしくないとか、資金が不足しそうだとか、そういった「人目の悪いこと」は、なるべく伝えたくない。また、伝えるにしても、淡々と伝えてしまいたい。そうすると、そういった「危機的」なことは伝わりにくくなり、伝わった時には手遅れ… ということも起こりうる。

本来なら、そんなことも細大漏らさず報告するのが、正しい報告なのだが、いろいろな「しがらみ」があればそうも行かない。それがマズい結果をもたらしそうな場合でも、「ここで自分がもうひと頑張りすれば」とか考えて、報告しなかったり。「あっちゃいけない」かも知れないが、「ありうる」ことでもある。

しかし、「愚痴」にはそういったことを超えた本音が出る。直接「それ」を伝えなくても、「空気」は伝わってしまう。そうすれば、「勘のいい人」は形式だけの報告でも、よりリアリティを持ったものとして読み取ることができる。

別にこれは「仕事」に限ったことではない。「ネットの上ではいい子」がたまに吐く「愚痴」は、その人の人となりがリアルに伝わる。「空気」とか「行間」といった形式的な情報になりにくいものが、「愚痴」を通して伝わって来る。

いつもグチグチやられては、見る方聞く方は迷惑でしかない。しかし、たまの愚痴は「何かをやっている人の特権」であったり、「行間や空気の伝達」だったりする。愚痴もそんなに悪いもんじゃない。