ネットの意見は「それはそれ」

私はここで好き勝手な暴言を吐く。

前提となる事実の認識に重大な誤りがある場合は別として、基本的にコメントされたところで主張を変えるつもりはない(事実誤認についての指摘は大歓迎)。なぜなら、これは「私の主張」だからだ。

ある事実があって、それに対してどう思うか、どう結論づけるかは、「私自身」である。私の今までの見聞や経験、学習… というものが私の主張を作って行くのだから、「あなた」と異なる意見を持つのは自然なことである。もちろんたまたま同じ意見になることもあるだろうし、逆の意見になることもあるだろう。

これは別に私に限った話ではない。誰でも「主張」をする時には、その人の見聞や経験、学習… といったものから作っているはずだ。そうでない「受け売り」の主張は、読むだけ時間のムダである。また、そうやって作られた主張であるから、「私」が同意出来るとは限らない。異なる意見になることは自然なことであるし、たまたま同じ意見になることもあるだろう。ある事実に対して同じ意見でも、別の事実に対しては異なるということも、当然ありうる。

そう思って、「あるふぁぶろがー」達のblogのコメントを見ると、ちょっと滑稽に思う。何が滑稽かと言えば、

コメンター達の意見主張の場

になってしまっていることだ。一生懸命反論する奴、著者の人格否定する奴、あげ足を取る奴、あるいは提灯持ちをする奴…

そこそこの程度であれば、著者の励みにもなるだろうし、「観客」にとっても面白いものだし、「ああ別の意見もあるのだ」ということを知る機会にもなる。そんなコメント欄は面白いと思うのだが、コメントで延々と長文を書く奴、それも「自分の主張」やら「反論」やら書く奴等がうっとおしい。

自分の主張をしたかったら、トラックバックを張るなりして、「自分の土俵」でやればいい。その方が、「せっかくの主張」が他のコメントに埋もれることもなく、また「コメント」という制約もないところで主張できるはずだ。

といううっとおしさもあるが、「異論」というのはネットの至るところにある方がいい。「意見」というのは「それはそれ」であって、絶対に正しいとか間違いだとかということはそれ程なく、立場やら経験やら見聞やらという「個性」の違いによってあるものだ。だから、「観客」からすると、「ある主張」と「別の主張」はフラットに見える方が都合がいい。「その時」だけを見れば、コメント欄を通じて、「ある主張」と「異論」が同じところにある方が便利そうだが、しばらくたてば「異論」の方は埋もれてしまう。

そういった「観客」の都合も思えば、ネットの意見は「それはそれ」でいいのだ。コメントスクラムでblog主に反論して主張を変えさせようというのは、いかにもガキっぽい行動である。またそればかりか意見の多様性、それもどちらかと言えば「反論」側の多様性を下げてしまうことにもなりかねない。

ということから、

コメントで反論したら負けかな

と思っている。

少なくとも私にとっては、「いろんな意見」が見れるのがネットの良い点に思える。