「宗教論争」のトリセツ

私がクリスチャンになった元は、「反原理」からだ。今時「原理」というと通じない若者が多いので念のために言っておくと、いわゆる「統一協会」という奴だ。彼等にはいろんな顔があるが、最初は「勝共連合」という顔で、後に「原理」という顔で私には見えていた。それに対抗する運動が「反原理」で、これもいろんな人達がいろんな立場でやっていた。

私が初めて自覚して行った教会が、この反原理活動家として新進の村上密師の教会。その時の「テキスト」は浅見定雄とか森山諭とかのもの。反カルトの論客達のものだ。

村上師は原理に入った人達を説得論駁して改心させるという活動をしていた。要するに「宗教論争」をやるわけだ。そこで私は、「宗教論争のしかた」をたっぷりと習ったものだ。

カルトの特長は「教義がおかしい」ことにあることは言うまでもない。ところが、「教義がおかしい」と指摘しても、彼等はそれを理解しようとしない。そこに「常識」や「既存宗教」を持って来てもムダだ。文字通りの「宗教論争」になってしまうだけだ。ではどうするか。

それには、「相手の教義を全部認める」のである。ここで大事なのは「全部」だということ。教義の隅から隅まで全部認める。認めるんだから、相手は大喜びだ。しかし、そこに「罠」がある。

カルトの教義は練られていない。御都合主義なところが多い。矛盾もいっぱいある。となると、「全部認める」ときにその矛盾が露出する。そこで「どっちが正しいねん」とツッコむ。あとはそこを手掛りに矛盾を突きまくればいい。

私は、諸々の宗教のsuper classとしての「宗教」というものは、存在しないと思っている。仏教とキリスト教の根源的な共通点は、せいぜいが「人としてちゃんと生きる」くらいのことでしかなく、教義として共通なところは皆無だ。そもそも、その「ちゃんと」のあたりも、宗教によっていろいろだ。しかし、「人の価値観の根底」であるという性質は同じだ。別の言い方をすれば、「人の価値観の公理系」が宗教なわけだ。

それゆえ、人は誰しも「宗教」を持っている。「俺は無神論者だ」という人も、その実は「無」なのではなくて「反」であったり「科学という宗教の信者」だったりする。まー、それはさて置き、「宗教とは価値観の公理系」という点が重要である。

公理の異なる系の上の理論は整合しない。これがある宗教に軸を置いて他の宗教を批判する時の障害である。それゆえ、宗教上の論争は宗教論争となる。宗教ではなくて「常識」を持って来ても無意味だ。なぜなら、その「常識」とは別の常識が相手の常識だからだ。だから、「常識」や「他の宗教の教義」で他の宗教を論じても無意味なのである。

しかし、「公理」であるからには、上に構築された「法則」は導出可能であると同時に、無矛盾でなければならない。この「法則」は「宗教」で言えば「教義」である。とすれば、それまで厄介であった「宗教論争」は、単純な論理の問題に環元できるわけだ。

とまー長く書いてしまったけど、要するに「宗教論争」を簡単に解決するには、「相手の論理の矛盾を突く」のが正しく、かつ容易だということ。そのためには、相手の言うことを全部聞いて肯定してあげることね。そうすれば、勝手に自分で自分の足を踏んでくれる。

まー、問題は「論理」というもの自体が、キリスト教が背景にある西洋哲学の産物だったりすることなわけだけど。

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