「年収1000万」への幻想

某マイミクの日記には、「旦那になる人にあれこれ注文をつける馬鹿女」が「年収は1000万以上でぇ〜」みたいなヨタを言っている話があった。別のマイミクの日記には「日本の電力は30%が原発だからやめられない」とのたまう政治家の話があった。どちらの話も「生活に必要な数字のそれなりの大きさ」のことである。

私は今の生活のことを思うと、「1000万」も「30%の電力」も、実はどうってことはない数字だと思っている。

年収が400万くらいだった頃、500万くらいだった頃、1000万超えてた頃、ゼロの今を考えると、生活が違う程違うかと言われれば、あんまり違う気がしない。もちろん収入が多い時には持ち物は多少良くなったのだが、それは「財布の紐が緩くなった」結果であって、「贅沢をしている」結果という感じはない。じゃあ、増えた収入はどこに消えたかと言えば、それこそ「消えて」しまっていて、なんとなくなくなってしまっているだけだ。

# ここでは、とりあえず累進税率の話は忘れる

定価1000円のものは、上手に特売を探せば400円くらいで買える。年収400万くらいだった頃は400円の時に買う努力をしていたのだが、年収1000万くらいの頃は1000円の時に買ってしまっていた。これでは同じ物を買っているのに支出が随分と違う。収入が随分と違うのに生活水準として大差ないというのは、どうもこういったカラクリがあるような気がしてならない。特に散財してるわけでもないのに金が残らないばかりか、生活水準もそんなに変わった気がしてないのは、要するにこんなところだ。

定価1000円のものはさすがに200円では買えない。だから、年収200万では同じような生活は無理だろう。しかし、3〜400万を超えてしまったら、1000万くらいまでは、違うと言う程は違わない。定価3000円くらいのものは、400円で買うのは難しいし、1000円にもならないだろうから、年収3000万くらいあれば生活も変わるだろうが、1000万くらいなら工夫次第だ。

「原発依存度30%」というのも、実はこれと大差ないのではないか?

事実、数年前の夏に東電の原発が全部止まっていたことがあった。その夏は冷夏であったということもあるが、言われる程危機的な状況ではなかった。そればかりか、節電のためにあちこちのビルの冷房が弱めに設定されてたお陰で、すごしやすかったことを覚えている。

だいたいに東京の冷房も暖房もクレイジーで、夏は寒いし冬は暑いくらいだ。こっちは外を主に歩くから、夏なら夏、冬なら冬の格好をしているわけで、冷房も暖房も程々でいい。そこに、冷房も暖房も効き過ぎているものだから、対策しなきゃいけない。冬場に「邪魔なコート」の経験がある人は少なくなかろう。大阪だと人々がケチなせいか、暖房も冷房も程々でしかないのだが。

こないだから書こう書こうと思っているネタなのだが、東京は妙にエスカレータが多い。都営線は地下深いからエスカレータがないと困るが、自由通路の2mにも満たない高低差にエスカレータがあったり、屋外の歩道橋みたいなところにエスカレータがあったりする。後者はまぁあっても悪くないが、前者はむしろ「あると邪魔」だ。あれはいったい誰が喜ぶと言うのだろう?「足が悪い人への配慮」とするなら、エスカレータよりもエレベータの方が嬉しいことが多いはず。楽になる人がいないとは言わないが、コストのかけ方が間違っているように思う。

何にせよ、こういった「むしろない方が良いと思えるものへのムダ使い」が少なくない。それを思うと、電力も「年収1000万のムダ」に近いものがあるのではないか。

電力となると、街角の自動販売機がよくヤリ玉に挙げられる。確かにあれはあれでムダだと思うし、電力を考えるとぞっとするが、あればあったで使う人もいる。豊かさの指標の一つして「選択肢の多さ」というのもあるから、あれに目くじら立てるのはどうかと思う。それよりも、まずは「ない(少ない)方が本当は嬉しいもの」を何とかすべきだ。

数字にされると「冷徹な事実」に見えてしまうことも、「その場」になってみると案外たいしたことはない。違いが違いとして目に見えるためには、もうちょっとインパクトが必要で、「1000万」とか「30%」というのはその程度のことでしかない。