「匿名ブログ」論議で抜け落ちていること

小倉先生やら池田信夫やらotsuneさんやらあたりの議論を見て思ったこと。

この議論はなぜか以下のことについてすっぽり抜け落ちているような気がする。

  • ネットワークリテラシはしょせんリテラシに過ぎないこと
  • 議論には匿名で十分なことと、そうでないことがあること
  • 議論すべきは「夢」じゃなくて「現実」ではないかということ

いわゆる「先進的ぶろがー」達は、スルー力やら何やらを鍛えれば、コメントスクラムは気にならない。だから匿名でコメントするのは「保身」のためとして有効だと解く。それに対して、小倉先生やら池田信夫やらは、一貫して「匿名コメントの類は卑怯」という立場を取る。

私の目には、「ネットワークリテラシ」なるもの—たとえばスルー力とか—は、あくまでもリテラシに過ぎないように見える。だから、それを持っているのは当然であると共に、当然であるが故に「持っていたところで別に偉くもなんともない」ものだと思う。また、「当然」とは言うものの、今は普及途上のものであるから、「ない人はない」だろうし、「ないからどうってことはない」という類のものだと思う。

「論客にとってのネットワークリテラシ」というのは、他のもので言えば、「作家とワープロ」みたいなものだと思う。作家がワープロが使えなくても作品が良ければそれでいい。もちろん使えた方がいいとは思うが、普及途上のものだから使えなくてもそれ程恥ずかしいものじゃないし、それを根拠にロートル呼ばわりするものでもないと思う。

また、どうも「匿名の是非」について妙なすれ違いがあるように思う。片方は「匿名は悪」にしてしまっているし、もう片方は「匿名は善(あるいは次善)」としてしまって、それがほぼ固定している。

しかし、世の中に流れる論説の類を見ると、「匿名でいいもの」「実名でないと困るもの」「属性があればいいもの」があり、それらは連続なものではないかと思う。

事実は誰が見ても語っても事実だ。だから、別に匿名でも困らない。Wikipediaが基本匿名で誰も困らないのは、Wikipediaは「事実を収集するもの」だからだ。数式、金、科学的事実の類は、誰の手にあっても真偽がはっきりしているし、客観的に検証可能である。だから匿名で十分だ。また、こういったものには「集合知」は有効に働く。

ところが、「思想」とか「感情」の類は、「誰が」という点が重要だ。また、客観的評価が十分でない「新説」の類も、誰が言ったかに意味があることもある。「光よりも高速な粒子を発見した」というのは、デムパ野郎が言ったならスルーでいいが、実績ある物理学者が言ったのなら、「もしかして」ということがある。だから、こういったものは匿名だと困る。また、こういったものは「集合」はむしろネガティブなことの方が大きい。多数派が正解とは限らないからだ。

じゃあ、客観的でないもの以外は全部実名で良いかと言えば、そうでもない。私のように固有名詞が苦手な人もいるし、有名でない人の実名なんてのは、「ほにゃららへ」と同じで記号でしかない。だから実名よりは、「どんな立場の人」という「属性」が欲しいこともある。

あとまぁ、議論している「今」というのは、「過去の果て」であると共に「未来の始め」であるということ。「過去の経緯や蓄積」を無視するのもナンセンスなら、「未来の方向性」を考えないのも同じくらいナンセンスだ。「実績ある論客」はいまだネットワークリテラシを持っていない人もいるという事実があると共に、「未来の論客」は高々ネットワークリテラシくらい持ってなきゃダメだろう。

まー、こんなことは「わかってるから話題にしない」のか「スルーしてる」のか「わかってないから話題にしない」のかもわからない。話の噛み合いの悪さからすると、「わかっているから話題にしない」のとは違うような気がする。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です