コロナ革命?

例によって蟄居中である。

仕事はいつもの通りないわけであるが、今回は今までの仕事がないのとは違って、本当に営業そのものがない。いつもちょいちょい来る営業のおっさんも多分蟄居している。まぁそれはしょうがない、多分出入りしている客が自粛中だろうから、これと言った話もないだろう。

しかし、そんなことをしてると、いろいろ今後のことを考えてしまうのである。以下は主に「教会」の話なのだが、それに留まらない。あらゆる活動(企業活動も当然に含む)に言えることではないかと思う。

長文なので、最初にまとめ。

コロナのせいで人に会うことが困難になってしまった。人々はその困難を克服しようとしているが故に、人に会う重要性も喪失しようとしている。となれば、何も「東京」で生活したりビジネスしたりする必要はないんじゃね? 逆にそれを有利に使うことだって出来るよね。というのが要点。

以下、本文。

秋葉は元々便利なところである。

部品は情報へのアクセスが良いだけではなく、生活にも都合がいい。私が料理のエントリが書けるのも、「ハナマサ」とか「吉池」あるいは「アメ横」なんてものが近くにあるからだと思う。

また夜が退屈であれば上野方面に出掛けるのもいい。別に繁華街で店に入ったりする必要なぞない。その辺にいれば様々な「人間模様」が見えたりする。あるいは不忍池の周りをポケゴーをするのもいい。別に金はなくても楽しいことはいっぱいある。散歩しても楽しいところはたくさんある。金曜日は弊社は15時までということになっているので、美術館や博物館のイベントに行くのもいい。

ところが、コロナでそれは一変した。

まず、そもそも街にみだりに歩くことが良くないこととされた。そのせいもあって、繁華街がそれこそ火が消えたように静かだ。客引きが全くいないわけじゃないんだが、治安の悪そうなおっさんがいるだけなので「華」がない。やっぱり水っぽいおねーさんが並んでいてこその繁華街だ。

「あの入金があったらあの店に食べに行こう」と思って眺めていた店は、ことごとく「臨時休業」と書いた紙が貼ってある。

今はそうだが、あと1ヶ月もしたら「閉店」という紙に変わるのではないかとハラハラする。

アメ横の店もほとんど閉まっている。まさかアメ横がシャッター商店街になるとは思わなかった。

まぁこれが全部じゃないけどね。

毎日「閉店セール」をしていた店がガチにお休みしている。

「秋月」「千石」「マルツ」「aitendo」も閉まっている。千石は結構後まで開いていたような気がしたんだが、それでも閉まった。会社からも家からも近いaitendoはかなり前から閉まっている。普段使う部品はこういった店で買うことはないのだが、「思いつき」で買う時にはこういった店はありがたかった。創造的()な仕事をしていて「思いつき」で行動出来るというのは良いことだったのだが、今はそれも叶わぬ。先日なぞ、高々数個のトランジスタ(特殊なので手持ちを使い尽してしまった)を秋月で通販してしまった。あまりに屈辱に涙が出そうになった(大袈裟は承知だが事実だ)。

上野公園の博物館や美術館はかなり前に閉館となり、イベントの類もない。こういったものを見ることは目の保養だけではなく、創造力の養いにもなるのが、それも今は叶わぬ。

冒頭に書いたように、「直接会って営業する」というオールドスタイルの営業は出来なくなった。「打ち合わせ」や「御用聞き」のフェーズまで行けば、ネットなり何なりでどうにでもなるが、新規開拓はそうも行かない。そもそも、弊社の客なんて「田舎」とか「昭和」とかの形容詞で表されるような「おっさん」が主である。彼等に「ネットで営業」なんて、まぁ無理である。てか、話を仲介してる「おっさん」がそもそもそれが出来ない。しょうがないので、自社開発をする。

東京の隠れたメリットとして、

東京の交通の便の良さ

があった。それはどういう意味かと言えば、日本国内に限らず、世界の多くの土地へ東京からだと1hopで行けるということである。これが松江とかにいると、どうやっても東京あるいは大阪経由ということになって、

どこに行くにも最低2hop

である。これがないのが、東京のメリットであった。時間も費用も随分と節約になっていたものだ。

しかし、今はそもそも事実上どこにも移動が出来ない。北海道だろうがハノイだろうが台北であろうが、行くことそれ自体が不可能になってしまった。

田舎にいる頃は東京にいれば人に会うことが容易になって良いと思っていた。しかし、当然ながらそれは今は叶わぬこと。まぁその前からそれ程人に会うことはしなくなっていたんではあるけれど。イベントにも行けるなーと思ってたんだけど、イベントも同じく。コロナ関係なくイベントに行くことはあまりない。元々出不精なのを忘れていたよ。

つまり、簡単に言えば

東京にいるメリットが全て喪失している

状態にある。となると、何も東京で高い地代で苦労しながら生活や仕事する必要なんてないんじゃないかと思い始めた。東京にいるメリットや制約がコロナのせいでなくなってしまったのだから、田舎の方が良いのではないかと。東京のアドバンテージがなくなってしまったら、その部分抜きで比較するよね。

「コロナが怖いから田舎に疎開します」はどうかと思うのだが、「もはや東京であるメリットなぞない」と思うと、前向きに検討が出来る。仮に「2週間の自主隔離」が必要であったにせよである。なーに、うちの田舎はどうせ天然ロックダウンだ。

なんてことを会社でチラと話していたのである。まぁまだ本気と言う程でもなく(コストもリスクもあるからね)、あくまでも考えてみたってだけなんだけど。

そうしていたところに、教会から「次の役員会どうします?」というメールが来た。

実は私は今いる教会の役員をしている。これは別に「徳が高い」からでもなければ「立派だから」というような類ではなくて、弊教会においては一種の「貧乏クジ」みたいなものである。いろんな事象が重なり、役員をやっている。

まぁそれはさておき、月に1度の役員会があるわけだ。それに参加することは、私の「奉仕」の一つである。

ところが当然ながら、そういった会合でも極力避けることが推奨されている。弊教会に於いてもそれは同じで、「どうします?」というのは「集まりますか? ネットでしますか?」という問いなのである。そう今や教会のそういったことに至るまでネット化したのである。礼拝は言うに及ばず、諸々のグループの活動や祈祷会に至るまで、今や教会はネットを使っているのである。元々今の教会は私が行く前からIT機器()が大量にあり、礼拝説教にパワポがあるのが当然になっているくらいだ。MLとかも普通に使われているし、若者はLINEでいろいろやる。

ここではっと気がついたことがある。

もし仮に「次の役員会」がネットで開催ということになってしまえば、その時に私は東京にいる必要は全くないのだ。教会の活動は数々あるのだが、そのいくつかはネットでも出来てしまうので、

東京の教会に所属しながらどこにいても良い

ということになってしまう。

今は礼拝のネット中継は私がやっているのだが、手法が確立してしまえば誰にでも出来る。それまでの試行錯誤は私がやった方が早いが、その先は場合によっては他の人の方が上手くやれるかも知れない。となると、私はネット中継という「現場にいないと出来ない仕事」から開放される。ネット中継の他に私は「手話通訳」という役目もあるのだが、これもネットの遅延の問題を解決すれば、何も教会に行く必要はない。家で通訳してネットで送ればいいだけだ。

私が「引っこむ」と検討している田舎は

松江ではない

もっと田舎の私の郷里だ。そこには私の所属する教派の教会はない。松江には同じ教派の教会があって松江までは車で1時間くらいで着くので、そこに行くのは今までの経緯からすると当然とも言えるのだが(今の教会は電車で1時間なので似たようなものだ)、この状況を考えるとそうとばかりも言えなくなってしまった。なぜなら、

私の郷里にいても、今いる教会で奉仕も交流も礼拝も出来る

という時代になってしまったからである。

人との直接の接触が忌避され、その代替手段が突然に普及してしまった結果、実現するまでに何10年単位でかかると思われていた「未来」がいきなりやって来たのだ。

「コロナ前」であれば、教会の礼拝がネット主体になること、いやそれ以前にネットで配信することは、「検討事項」ではあったのだが実現することだとは思ってなかった。それは教会というところは老若男女集う場所であり、ネット環境のない人も少なからずいたからである。私をして及び腰になっていた。

とは言えいろいろ検討はしていたので、「技術的に可能なので、後はやるかやらないかです」「一部の人向けに年末までには」とか言っていたのだが、そういった検討や予定をまるで無視して3月の頭から試行が始まり、「緊急事態宣言」の時にいきなり本番となった。今や弊教会ではネットの礼拝が全てである(日曜日に来るのはスタッフ数人だけ)。高齢者がデジタルデバイドになりかけたのだが、それも徐々に解消しつつある。

これが試行していた頃の設備。とても雑な中継カメラだ。私がSkypeで使っているのを持って来て、譜面台にガムテープでくくりつけてやっている。それくらい最初は間に合わせであった。今はそれなりにいいカメラにした。

私が買った時は15,000円だったのに今は30,000円超えてんのかよ…

三脚もちゃんとしたものにした。ついでに言えば、最初の方のライブはYouTubeの直接であったが、今はOBS Studioを使ってエンコーダ配信にしている。また、XSplit VCamも使うようになった。毎週ちょっとづつパワーアップしている。そのうちブルーバックを併用したり、複数台のカメラを使ったりするだろう。何しろ私の前々職はテレビ屋なのである。

これで何が起きたかと言えば、

ネット視聴者数 > 普段の礼拝参加者数

という現象が起きた。平たく言えば、ネット視聴を「出席」と数えると、出席率が前よりも良くなったのである。いろんな物理的な制約で礼拝に来れなかった人達までが、礼拝に「出席」出来るようになった。

顕著なのは聾者の出席で、ここ最近はいろんな事情で礼拝に来てないことがあって、通訳者は「楽」をさせてもらっていたのだが(要するに通訳してなかった)、ネット中継だと見られるかもなーと思って通訳をつけていたら、やっぱり視ていたらしく感謝のメッセージが来たりした。普段来てない人も「出席」するのである。「緊急事態」以後「通訳者」は私1人になってしまっているので厳しいのではあるが、充実感がある(普段は数人で交代しながら)。

教会のいろんな活動がネット化することは、もっと検討から外れていた。何しろ教会の活動とゆーのは

人に会ってなんぼ

みたいなところがある。それをネット化するなんてことは、検討すらしたこともなかった。ところが、礼拝がネットだけになってしまってから「教会の活動が出来ないのは寂しい」とか言い出した人達が、どんどんネット上でやるようになってしまった。ZOOMを使ったりLINEを使ったりSkypeを使ったりとツールはいろいろであるが、みな思い思いのツールを駆使してやっている。

これで何が起きたかと言えば、「おじさん会(正式名は別にある)」では

活動参加者が増えた

のである。時間や場所の制約が減った分参加しやすくなったらしく、車の中からZOOMで入って来る人までいた(奥さんが運転してる)。

というように、いろんな問題は適当に解決されて、以前よりも良くなってしまっている面も多々あるのだ。

弊教会では、「2040年」を節目と考えて、それに向けていろいろな検討をしたりしている。その話が出る度に私が

「なーに、その頃はみんなベッドの上で寝たきりになってて、VRゴーグルかけて礼拝に出てますよ」
「教会堂なんて不要になってスタジオ、いやVR空間にアバターかも知れませんね」

とか言っていたものである。だいたいコアメンバーの年齢を考えると、そうでなかったら天国にいるはずである。

ところが、そう言っていた「2040年」に起きる予定だった諸々が、強制的に「今」起きてしまっている。

ここでは教会で起きた諸々を挙げてみた。旧態然とするのが当然であるかのような

日本のプロテスタント教会

で起きているところが面白いのである。

教会で「場所」の制約がなくなってしまい、「礼拝」がネットで公開される時代が来てしまったその先に何が起きるか。ちょっと想像がつかない。「リモート勤務」が当然となってしまったその先に何が起きるかも同じように想像がつかないが、それよりももっと想像がつかない。何しろ「行く教会を選ぶ」のは、就職先を選ぶことよりもずっとハードルが低いのだ。教会に「採用試験」はないのだから。

さらに言えば、どれだけ人が集まろうと、「礼拝堂の大きさ」の問題が起きない。「礼拝堂」を大きくするのに金はかからない。場所の制約もなくなってしまったことも併せて考えれば、

過疎の村にあるメガチャーチ

が存在出来うるのだ。

こういった「革命的」なことが今まさに起きつつある。今起きている諸々やこれから起きることを考えると憂鬱な気分になるのではあるが、みんながこの状況に慣れてしまった時、いったいどれだけの変化が起きているかを考えると、それはそれで楽しみだと言えなくもない。願わくは肺炎に罹患せぬことを。