例によって少年犯罪の関係で様々な新しい規制が出来て来た。どうも日本という国は
コンセプトを持たず何でも泥縄
が好きな国らしく、「ナイフを少年が持つからナイフを使った少年犯罪が起きる。だったらナイフを持たせなければいい」という発想でナイフの所持を禁止しようとしている。まぁ確かにナイフを奪えばナイフによる犯罪は発生しないだろう。
さて、同じような「ナイフ規制」は実はもっと大昔からあった。当時社会党の浅沼委員長が右翼(?)少年のナイフによって刺された事件の時、「とにかくナイフ廃止」ということで少年達からナイフを取り上げた。結果どうなったか。
その当時、子供が鉛筆を削るのはナイフであった。これは慣れてしまえば別に難しくもなく綺麗に削れるのであるが、ナイフの所持を一律禁止されてしまったので、ナイフで鉛筆を削ることは出来なくなってしまった。その結果、鉛筆削りなる道具が普及し、
鉛筆は鉛筆削りで
ということになった。そして子供達はナイフで鉛筆を削るという技術を失なってしまった。
まぁ普通の人は鉛筆削りで鉛筆を削っていれば、それで十分であることが多い。何も時間のかかるナイフで鉛筆を削る必要もないだろう。ところが私が中学生の頃には技術の時間に「製図」という科目があった。また私は一応高専で必修科目としてやはり「製図」があった。この時の鉛筆の削り方は特殊で、長く使っていても線の太さが一定になるように
マイナスドライバーの先
のように鉛筆を削る必要があるのだ。このため一度鉛筆の芯を削らずに木だけを削って芯を長く出し、それをサンドペーパにかけて鋭らせる必要がある。このような削り方の出来る鉛筆削りも売ってはいたが、あまり一般的なものでもないので、高価な上入手難であった。そのため普通の学生はナイフで鉛筆を削ったものである。
実は私は鉛筆削りやちょっとした工作のために、普段からナイフを使っていた。そのため鉛筆はいつもナイフで削っていたのである。だから製図の時間でも特別苦労をすることはなかったのであるが、他の連中はそうは行かない。結果、ド下手な削られ方をした鉛筆になるのである。技術者の卵としては、ちょっと悲しい。
このように子供をナイフから遠ざけるということは、
ナイフを使う技術を放棄させる
ことになるのである。
さらに言えば、工作をする時にしろ、鉛筆を削る時にしろ、注意していないと
手を切る
ことになる。もちろん慣れるまでは注意していても手を切る。手を切れば、当然のことながら、
痛いし血が出る
のである。つまり、「ナイフで切るとどうなるか」ということが実感として理解出来るのである。しかも、その「実感」はほとんど力を入れることなく味わうことが出来る。
件の事件の時、少年は「教師にナイフを見せて脅そうとしたが怖がらなかった」と言っている。つまり、この教師はそのナイフは恐いとは思わなかったのである。
しかし考えて欲しい。ナイフというのは、「ほとんど力を入れることなく切れる」ものである。つまり、その気さえあれば、
いわゆる弱者が持っても凶器となる
ものであるし、「切れば痛いし血が出る」ものである。つまり、
恐くて当然
のものなのだ。それを怖がらなかったと言うのだから、この教師もナイフというものを実感として理解していなかったのだろう。
ところで、
強力な兵器は使えない
というパラドックスがある。たとえば国際紛争を解決するための最終兵器である「核兵器」は文字通り
最終兵器
であって、そうそう使えるものではない。ナイフのような刃物も、個人間の紛争を解決する道具としては、あまりに強力であるから、まず使えるものではない。だから「ナイフがどのようなものであるか」ということを知っている人は、ナイフを凶器として使うことは出来ないはずである。昔の子供はナイフを持っていても、「ナイフがどのようなものであるか」ということを実感として知っていたので、凶器として使うということはなかったのである。「浅沼事件」の時もそれは「最終兵器としてのナイフ」として使われたのであって、「ちょっとした脅し感覚」で使われたものではないのである。
しかし、今回また少年からナイフを取り上げようとしている。そうすれば、ますます
ナイフの威力
や
ナイフの怖さ
を知る機会がなくなる。さらに
ナイフの扱い
も知る機会がなくなるのである。これは現状よりもさらに危険なことである。
どうやらあちらこちらの自治体で、ナイフは
有害指定玩具
というものに認定されるらしい。「ナイフは犯罪に使われる危険性の高い玩具であるから有害」という論理らしい。そうなると仮に、
教科書を使った犯罪
がそこらじゅうで流行ったとしたらどうなるのだろう?まさか、
教科書を有害玩具指定
にするのだろうか?日本の行政は馬鹿だから、案外するかも知れないが、およそそんなことはないだろう。
しかし、「教科書」と「ナイフ」の間に何の違いがあるのだろうか?
その気になれば凶器になる
ということにおいても、
学校で必要である
ということにおいても同じはずである。
人によっては、
教科書は学校教育に必須だが、ナイフは必須ではない
と言うかも知れない。しかし、それは現在の学校教育がナイフを使うような「手作業」に教育の重点を置いていないということの肯定に過ぎない。この考えは延長すると、
手作業の差別
につながるものである。つまり、
手作業のような仕事をするものは学校教育の外に産まれた職業
的な考えになるのである。つまり、
職人は学校教育とは関係ない
ということになり、
職人差別
である。これは「職人」のはしくれ(プログラマは「職人」である)としては由々しいことである。
別の側面で見れば、この見方は「ナイフという必要度の低いものは、切り捨てても良い」という発想である。しかし、この「必要度」というもので物事を順序つけするということ自体が、「受験最優先」的な発想につながっているということは、「関係者」ならわかるはずだ。そしてこの、
余分なものの排除
のという発想は、
いじめ
の発想と同じものなのである。結局子供が弱い子供をいじめているのと同じように、ナイフを「いじめて」いるのである。発想の根底は同じである。つまり、子供からナイフを取り上げるということは、
いじめの肯定
と同じなのだ。ナイフを取り上げようと考える奴らに「いじめ問題」を論じる資格なぞない。
結論を言おう。断じて子供からナイフを取り上げるべきではない。むしろ子供にはナイフを持たせて、「ナイフとはどのようなものか」ということを教えるべきである。その方が問題解決への近道のはずである。