青プリン氏の処分がもにょもにょする件

青プリンこと早川氏が訓告処分を受けたらしい。

青プリン(早川由紀夫氏)訓告問題に対する侃々諤々

青プリン氏も1ミリも同意するところはないし、意見に賛成出来ないし、出来ることであっても「もっと言い方考えろよ」と思うことばかりなので、正直

ざまwwww

とか思うのだけど、「海外ニート氏」のblog閉鎖以上にもにょもにょする。

「言論の自由の保証をせよ」ということについては、海外ニート氏の時に書いたんで、繰り返すつもりもない。あのエントリの「海外ニート」の部分をそっくり「青プリン」と書き換えて読めばそれでいい。

ところが、それ以上に青プリン氏のはもにょもにょする。

青プリン氏をこうやって黙らせたことが、彼を黙らせたかった人達の「勝利」なのかということだ。

正直私は黙らせたかった一人ではあるのだけど、こういった形で彼が黙らされたことによっての「勝利感」というものは全くない。いや、むしろ

雨天コールド

みたいな残尿感がある。勝った負けたとゆーことそれ自体が目標で、勝てれば何でもいいと思う人達は嬉しいのだろうけど、私はそっちはどうでもいい。だからなんだろうと思うのだが、すっきりしない。陰謀論的なものが負けそうになった時に「黙らされた」なんて、絶好の言い訳だろう。

だいたいこの手の「勝負」なんてのは、勝った負けたそれ自体よりも、「どっちが正当性があるか」ということ、あるいはその支持者の数とか質いったことに意味がある。だから、誰か一人に「あんた負け」とか言われても負けじゃないし、騙された人々が大勢マンセーしたところで勝ちでもない。むしろ、そういった「勝負」を公開の場でやって、それぞれが納得するということの方に価値がある。

どうせ青プリン氏は自説を曲げないだろうし、あの言い方を変えるとは思えない。だから、説き伏せる類のことに意味はない。勝手に「負けました。もういいです」と言われても、意味はない。

逆の人達だって同じだろう。青プリン氏の言うことを納得する人達は最初から反対側には立たないだろうし、生理的に気に食わん人達が好きになったりするとも思えない。

では一連の議論、水掛け論の平行線に意味はないかと言えば、「観客」は意味を見い出すことが出来る。そこには山と積まれた「他山の石」があるわけだし、「本当かよ」とつっこみたくなることもたくさんある。あるいはこの文章のようにネタにしてしまうという使い方だってある。これでブロックの仕方を覚えた人もいるだろう。当然、どっちの言い分が正しいか自分で検証してみる機会も与えられるわけで、こういった「くだらない口論」であっても、公開の場で行われることには意味がある。つまり、こういった「くだらない口論」であっても、

納得のためのプロセス

なのだ。

それとは別にこういったものは、もっと「ドライ」に対処するべきだと思う。

彼の言っていることが間違っていると思う? それは議論の一部なんだから、本人に@すればいい。

彼を気にいらない? それは個人の趣味だ。だったら、それは本人に@すればいい。

彼の言っていることに誤りがあってそれで被害を受けた? だったら、彼を訴えればいい。あるいはその人達を支援すればいい。

彼を殺したくなった? それなら殺したくなった奴が殺しに行け。

つまりはそーゆーことで、「問題」があれば「当事者」がその内容と目指すところに応じたことをすればいいだけだ。それを「大学」あたりに「圧力」をかけて「黙らせる」というのは、問題解決の方法として間違っているだけじゃなくて、そもそも解決にならない。

「一騎打ち」の勝負を火縄銃で終わらせてしまえば、「剣ではこっちが上だった」とか言い続けることを許しかねないのだ。