超絶酷いコメントを見た

またコメントの話かよw

私が事故後、脱原発派に転向した一番の理由

似たようなエントリ書こうかと思ってたけど先に書かれちゃった。

まぁ、この手の話は賛否あるもんだ。例によってコメントがいろいろ。それも含めて読めって@tsudaさん書いてたんで、コメントを読んでたんだが…

コメントに賛否茶坊主通りすがりが並ぶのは、コメント欄なんかつけるからだよって話は今回はいい。

何らかの主張ってのは賛否あって当然で、その中には人の話なんて聞いてない奴もいて… ってのも、まぁブログにはよくあること。私が見た時点では、まだ香ばしい奴は少ないけど、それなりに有名ブログなんだから、これからわいて来るんだろう。

私が見てて失望したのは、そういったコメントではない。これだ、

本エントリの趣旨とは少しずれますが、今後このブログはこういった原発関連の記事のみとなり、IT 系のうんちくなどは掲載されないでしょうか?
そうであれば、心置きなく RSS 購読を辞められるのですが、過去に良記事を多く読ませてもらったので未練があって踏みきれません。
そういったブログ自体の運用のスタンスについて明示していただけるとありがたいです。

はぁ? ぽかーん(AA略)

まぁそんなこと聞かれて一々答える必要もないと思うんだけど。

このコメントのタチの悪さは、こーゆー「ゆとり感」ではない。どうも書いてる人は30過ぎてるから、「ゆとり」ではない。

このコメントから受けるものは、表面的には「脱力」であるし、取るに足りないスルーしてしまえばいいだけことなのだが、意外にもこういったコメントが精神を侵す。

人間は好意で操作される。お互いの立場の上下を越えて「操作」するのは、「好意」らしい。ゆう先生のメルマガで読んだなーって思うんだけど、とりあえず本。

まぁ本はどーでもいいけど、人間ってそーゆーものらしい。

と、同時に、人間が苦手なことは「好意を失なうこと」だ。「敵対」はむしろモチベーション足りうるのだが、「好意を失なう」ことは単純に凹むことで、出来れば避けたいと内心思っているものだ。つまり、

失望される

ことの心理的なダメージは小さくない。「俺、最初から期待なんかされてないし」とか強がりを言う人は多いけれど、それはたいてい単なる強がりだ。

ということを思って件のコメントを読むと、コメント主は結局のところ、

こんなことはもう書くな

と言ってるのと同じだということになる。「これ以上こういった話を書くとRSS引くのやめます」ってのは、あからさまに「こういった話を書くな」と言うよりも効果的なのだ。一見悪意のない、おずおずと「申し上げてる」風なので、第三者的にはスルーするものでしかないけれど、言われた人にとっては潜在的なダメージを与える。「あの人に嫌われるかも知れないからな」とか思うと、なぜか自粛してしまう。それが人の性なのだ。人は期待に答えようとし、失望を避けようとする。

ブログって何度か書いているように、属人性の高いもので、主観的なものだ。自分の主張を主観的に書かれたブログほど、面白い。

「上から目線」の次は「ドヤ顔」か

もちろんそういったものを鵜呑みにしたり、誰かの信者になったりするのは馬鹿げているのだけど、主観もいっぱい見れば、なんとなく現実が見えて来る。普段見ない角度から書かれた主張は、自分の見識を広める。

その時に必要なのは、その人の主観がどこにあるかを知ることだ。スタンスがわかれば、何をどう見て言っているのか、よくわかる。その人の「主題」みたいな話の間にある、「猫にゃー」や「社会観」みたいな話があると、スタンスが見えて来る。

と同時に、そういった主張をするということそれ自体大事なことだ。何かに対して賛成なり反対なりの態度を表明することは、

社会人

として正しいことだ。それは、どっちを向いているかは別にして、世の中を良くする方に向く一助になる。無関心が一番良くない。

件のコメントはそういった類のことを否定することになる。嫌いなら黙って読むのをやめりゃいい。それで有用な情報が得られなくなるなら、それは「君」のバランス感覚でどうにかするべきことだ。リスクとメリットのバランスを取る。その結果の損失は自己責任。ブログなんてそんなものだ。いや、まぁ世の中のたいていのものは、リスクとメリットと両方あって、そのバランスを取るのに苦労するもので、「俺はメリットしかいらない、リスクをゼロにしろ!」ってのは希望としては間違っちゃいないけど、大人が声高に言うもんじゃない。