むしろ科学を信用しなかった結果だろ

あんまり原発のこととか書きたくないんだが、ネタが急に転がって来たので。

震災と日本人 倫理学者 竹内整一 
連載(14) 科学過信による「想定外」と「はかりしれないこと」

事実誤認&我田引水もはななだしい。

福島のあたりで歴史上大きな地震がかつてあったらしいことは、「科学的」に示されている。一々ポインタ張るまでもないくらいそこらじゅうで見て、食傷している。

なぜ「科学的」かと言えば、あまり歴史的な文献がない土地だから、地層とかそういったものから見るしかないからだ。都に近いところだと、かなり古い時代のものもわかったりするらしいのだけど。

つまり、「科学」によって、あの規模の地震や津波があの地で起きることは、想定されていた。

ところが、そのことが書かれた論文や警告は、その「科学」を信じない、あるいは信じたくない人達に、「政治」とか「経済」という、「科学でないもの」によって拒否された。その結果、特に対策がされなかった。つまり、

過信どころか信用しなかった

結果だ。「過信」していたのは、自分達が作ってしまった「安全神話」とゆー、科学とは別のものだ。

だから、あの一連の出来事に対して、「科学過信の結果」みたいな言論は全てダウトだ。

PS.

twitterで「科学がねじ曲げられた結果だ」と言われたけど、「ねじ曲げ」たのは、非科学的な都合からなんだから、「ねじ曲げられた科学」はもはや科学じゃない。「安全神話」も同じ。

私が一番危惧するのは、「科学過信だ」って声が大きくなると、

科学軽視

につながるということ。国家予算の使い道云々だけじゃなくて、妙なスピリチャルな疑似科学以前みたいな宗教じみたものへの燃料になる。だから、「科学過信」という言葉は否定されなきゃいけないのだ。彼等は「科学じゃないもの」を信じさせるために「科学みたいなもの」を使って、それを信じさせていただけだ。つまりまぁ、

原発に「安全だ」って声をかけてると、
安全な原発になる

みたいなことを言ってたに過ぎんのだ。それは「科学」じゃないよね。

PS2.

科学を「信じる」ってことに違和感ってブコメあったのだけど、残念ながら「科学」も信じるものでしかない。なぜなら、「未知のもの」に科学をあてはめる時には、「適用可能である」ことは信じなきゃいけないからだ。もちろん「科学的」にそれは限りなく正解に近付けることは出来るけど、「未知のもの」である限り、何が起きるかわからない。「モデルの外」は常に存在するし、それがわかればモデルは改良されるべきで、それが「科学」という態度。でも、それはまた「科学」の限界でもある。

あと、「後づけ」ってのがあったけど、それはまさしく科学とはそーゆーもの。起きてないものは科学ではわからない。むしろ、起きてないものがわかったら、それは科学ではない。「科学的予測」とは、「過去の延長に未来がある」とゆー予測であって、起きてないものがわかるわけではない。

むしろ科学を信用しなかった結果だろ” への3件のコメント

  1. > 「科学的」にそれは限りなく正解に近付けることは出来るけど、「未知のもの」である限り、何が起きるかわからない。
    この辺りで科学者が「〜の可能性が高い」とか「〜の可能性が無いとは言えない」とか言う発言をして、
    その可能性なんてイレブンナインくらいであっても「絶対」って絶対に言えないから
    そこの揚げ足取りをする自称科学者とか自称有識者とかをどうにかしないといけないっすよね

  2. 「安全」というおまじないだったに過ぎない・・・。神社のお守りか!(笑)

  3. まあ、元々反原発の人々にありがちな傾向として「反科学」「反テクノロジー」的傾向があって、個人的に、どうしてもその辺の人々とは、まともに話にならない。
    よく、「どうせ原油よりも使い勝手の良いエネルギー
    なんてないから、原油の枯渇=現代文明の終了。後の世代のみなさん、ご愁傷様。」なんて書いてる年寄りの元大学教員が居たが、これなどは後の世代に対する、はなはだしい無責任さを感じる。
    これよりは、60歳以上の技術者が集まって、福島第一原発の現場に入り、若い人間よりも自分たちが先に被爆して事態の収拾に少しでも役立とう。という人々の方が、よほど責任のある態度だろう。
    私もいささか電気と計装の知識がある。60歳以上なら喜んで志願する。
    電気を使わない方が幸せな暮らし、なんてのは江戸時代の感染病罹患率と死亡率、平均寿命、飢餓や犯罪の遭遇頻度を計算に入れずに、あの時代幸せと言うようなもの。

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