処女と臓器移植とオープンソース

今日は帝京大学まで診察に行った。その途中でふと思ったこと。

処女の「あそこ」は汚ないものである。「そんなことないよー」という声もあるだろうけど、それはそーゆー心掛けをしている人がいたというだけで、一般的にはそう綺麗なものじゃない。むしろ「綺麗だったらニセ処女」だと言っても良いくらいだ。

ところが男を知り、経験を積み、セックスって良いものだと思うようになると、綺麗にするようになる。

これは処女の頃の「あそこ」は自分だけのものであるからだ。自分だけのものを綺麗にするかどうかというようなことは、一重に「自分の心掛け」である。そこが綺麗であろうとそうでなかろうと、それ自体は自分の羞恥とは関係ない。汚なかったら触れなきゃいいだけだ。自分で「綺麗な私のあそこ」とか悦に入るような趣味がなければ、どうだっていいことだ。もちろん子供の頃に「あそこは綺麗にね」という教育を受けていれば、多少は違うだろうが、それでも「自分の心掛け」だけのことである。まー「部屋の片付け」みたいなものだね。

ところが男を知ると、そこが自分だけのものでないということに気がつく。自分が触れたいと思わなくても、セックスの時は勝手に触られたり舐められたり、あげにく臭いをかがれたりする。つまり、「他人の評価を受ける機会を得る」ということである。そうなると、恥ずかしい思いはしたくないし、他人が見るからには綺麗にしなきゃということになる。自分の都合だけで放置するわけには行かなくなるなるのだ。まぁそんなわけで普通の羞恥心があれば、処女のそれよりは綺麗にする。

とかいうことを電車の中で思っていたのだが、そこで「性器」というのは、身体の器官であるということに気がついた(何せ内臓を診察してもらいに行くところなわけで)。処女と非処女の違いは、身体の器官つまり臓器の一部に公共性があるかどうか(それを認識しているかどうか)の違いであるとも言える。

生体肝移植のドナーになった人は、「決まってからは酒や煙草を断ち、肝臓を綺麗にしようとしました」みたいなことを言っている。その人はそれまで肝臓が自分だけのものだと思っていたので、それが健康であるとかそうでないとかということは、「自分の都合」だけであった。ところが他人に提供すると決まった時に、自分だけのものでないということに気がつき、綺麗にしておこうと思うようになったわけである。つまり、自分の臓器に公共性があると気がついた結果、綺麗にしようと思うようになったのだ。そこまで行かなくても、検診の前には多少身体に気をつかったりするでしょ。

普通、健康に気をつけるとかどうとかということは、非常に個人的なことである。「自分の身体は自分が一番良く知っている」という嘘や、「俺の身体はどうなっても俺の勝手だ」という嘘は、その辺が典拠だ。家族を持ったり、会社の偉い人になったりすると、自分の健康は自分だけのものではなくなるが、それとても「元気なフリをする」ことでごまかしができる。

ところが、「臓器ドナー」となると、そういうごまかしは効かない。本当に臓器が良いかどうかということが見られるわけだ。となると、本気で健康に気をつかわないといけない。だから、きっと臓器ドナー登録というのは、健康意識を高めるという点で良いことになるであろう。

ここまで書けば、「オープンソース」についての話はグダグダ書く必要もなかろう。「自分だけのものではない」と意識することによって得られることは、「健康な臓器」「綺麗なあそこ」みたいなメリットが得られるということだ。

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