「トーバルズ、Solarisを斬る」

「トーバルズ、Solarisを斬る」

まぁ「斬る」ったって、要するに「興味ないよ」ってことなんだけど。

この中に、

新しいこと、変わったことがしたいという理由で、ゼロから新しいもの、変わったものを作ろうとするのは、私にいわせれば愚の骨頂であり、思い上がりです。Linuxが目覚ましい成果を上げているのは、細事にこだわり大事を逸する愚を犯していないからです。しかし、この穴に陥るプロジェクトのいかに多いことか。NIHシンドロームは病です(編集部注:NIHはNot Invented Hereの略。NIHシンドロームとは他所で開発された技術を嫌い、自社の研究成果にこだわる考え方のこと)。

というのがある。ちょうど昨日、会社の連中と昼飯を食っている時にこんな話をしたところだった。

その時、「オープンであるということは、単に戸が閉じていないというのとは違う」という話をしたのであるが(「not closedはopenではない」という話)、「じゃあオープンにするにはどう考えれば良いか」という話になった。

何かをオープンにする時に、常に警戒されることが、「軒先貸して母屋を取られる」ようなことが起きないかということである。つまり、開発の主導権を奪われたりしないかということだ。自分が手塩にかけたプログラムが、他の奴の手に渡るくらいだったらオープンにしたくないという気持ちは、非常によくわかる。

最近はオープンなライセンスを採用するのは結構「流行り」みたいなところがあり、多少の抵抗を感じながらもオープンなライセンスにしてしまう人は少なくない。それは確かに悪いことではない。オープンにするというのは、「非処女のあそこ」だから…とは言え、「多少の抵抗を感じる」ということがあったりするわけである。その抵抗感の何割かは、「自分の作ったものが他人のものになってしまう」という警戒からではないかと思う。

今のLinuxは確かに素晴しい。じゃあそれを作ったLinusは凄い天才かと言えば、あんまりそうは思わない。少なくとも私の知っているLinusは、「ただの気のいい変なヤツ」でしかない。いや、仮に本当に彼が凄い天才であったにしても、彼一人で今のLinuxは作れてはいない。その道のエキスパートは世の中にいっぱいいる。そもそもLinusはASTからは「せいぜい可しかやらない」とか言われてる。

「それがオープンソースの威力だよ(GPLまんせー)」とは誰だって言うが、彼がそれを決心したというのは、いろんなことがあったと思う。またその「いろんなこと」の全てを彼が考え尽したかと言えばそうではないと思う。

オープンにして、これだけLinus以外の人が参加していようと、LinuxはLinuxであり、Linuxは「LinusのUnix」という意味であり、Linusの著作物である。IBMのコードが沢山あるからと言って、OpenAIXではないし、SGIの… である。

これだけ多くの人の手が入りながら、「LinuxはLinusの著作物である」ということは不動である。これは「彼が最初の作者」であったからではない。もちろん「最初の作者」に敬意を表するということは当然であるが、それに見合った存在でなければその地位は存在しない。確かに「最初に作ったの誰だっけ?」な有名ソフトも少なくない。

じゃあ、彼はなぜ今の地位があるか。それは彼が「本質的な部分」を押さえることができたからではないかと考える。そこさえ押さえておけば、どんなにオープンにしても「軒先貸して」にはならないだろうし、著作者としての地位は不動にできる。逆にそれに失敗してしまうと、「誰だっけ?」になったり、中途半端なオープンになってしまう。

とか考えると、「オープンにする能力」というのは、「自分の仕事の本質を押さえる能力」ではないかという気がする。

技術に自信があったり固執したりすると、ついNIHシンドロームになってしまう。逆に、「技術的にケツ拭く能力」に欠けていれば、「開発しないで使うだけのヲタ」になってしまう。このバランスを取るのはなかなか難しい。まぁ後者には「頑張れ」と言うしかないが、前者は「自分の能力の限界を知る」ということで解決がつくだろう。何でも自分の力でできると思ってはいけない。謙虚に他人の技術を受け入れるべきである。

かと言って、謙虚にばかりなっていても、「使うだけのヲタ」になりかねない。そこでオープンにしたら、「自分の好きなことに邁進する」ことにすればいい。そうすれば本質が押さえられると共に、自分の好きなことができる。もちろん最初の立ち上げ(つまり「最初の作者」になること)の時は、いろいろ自分でやらなきゃいけないけど。