無邪気な死神

どうも人の善意を期待する世界では、一部の人に心理的負担をかけて、他の大多数は無邪気にやっていることが多い。そういった無邪気な人達は、一部の苦しんでいる人が裏で頑張ってるからだということを考えもせずに、無責任に「楽しければいいのです」みたいな論陣を張ってくれる。あるいは、「難しく考える必要はないのです」とか言ってくれる。

確かに問題を難しくしてはいけないし、たいていの問題の答えはシンプルだ。しかし、その「無邪気」は一部の人の苦労の上に成り立っているものだし、そういった人達が言う「難しく考える必要はないのです」と、無邪気な人達の言うそれとは、まるで意味が違うのだ。

苦労している人達が「あー俺は苦労してるんだ。お前達も苦労しろ」なんて言うのはダサいことで、苦労している人達はそれを知っている。また、それを感じさせないようにするのが甲斐性だと思っている。だけど、そういった「苦労している人達」が苦しんでいるのを垣間見た時に、無邪気な論を張るのはいかがなものか。

確かに考えてどうなるというものではない。しかし、本来みんなで考えればどうってことないことを考えないということ、そういった無邪気な行為は、「コミュニティ」に死を招く死神なのだ。いわゆる「ボランティア」ないくつかの組織に属して来て、そのいくつかを率いて来た経験からそう思う。

別に難しいことを考えたくなかったら考えなくてもいい。だったら、考えていないなりに、人前で何かを語って欲しくない。逆に一度語ろうと思うのなら、無駄なことであっても考えなければならない。みんなが頭の片隅でチラとでも考えていれば、それだけで随分と相互の負担は減るはずだ。

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