テレビに出るということ

2ちゃんでは「やらせ酷い」的な話になるんだろうが。

テレビで人気の大家族が暴露「ひどすぎるよ、うそばっかり」

私はむしろ「出ておいてからgdgd言うなよ」と、乱暴なことを思ってしまう。あのさ、「テレビ」に何を期待してるの?

もう何度も何度も書いてることなんだが。

NHKは別にして、日本の放送はほとんどが「商売」でやっている。残りは何らかのプロパガンダだ。これは日本に限らない。形式はいろいろあるだろうけど、結局はこのどれかに属する。

で、「民間放送」となると、100%商売だ。彼等は何を商売としているかと言えば、「コンテンツ」と「広告枠」。これは動かしようがない事実。よく、放送の公益性とか言われるけれど、それは当然のようにタテマエに過ぎないし、一見公益性を意識したように見えても、実は

その方が儲かる

という判断だからだ。いや、これは民放に限らない。「メディア」は自分の得になる情報しか伝えない。「口コミ」や「噂」は、自分が伝えたいと思う情報しか伝わらない。「○○さんが××と言ってた」的な「御注進」は、つまるところそれを伝えた人が他人の口を借りて言っているに過ぎない。

だから、テレビに出てしまえば、テレビは自分の都合に合うように情報を加工する。「捏造」と言いたい向きもあるだろうが、別にそんなことを考えているわけでもない。彼等は

素材を最大限に活かす

ための編集をしているに過ぎないことがほとんどだ。検察が証拠捏造とかそーゆーのとはレベルが違う。

そうなれば、「滅多にないこと」であっても面白ければ、それがたった1度であっても「あった」ということになるし、「日常的にあること」であっても面白くなければスルーする。何にしろ「枠」は有限なのだ。素材価値を大きくすることと、尺との妥協点を探す。別にテレビに出ない事実が「ない」というわけじゃないのは、お互いに了解してるだろ?

だから、よほどの「偉い人」でない限り、テレビに出てしまうということは、

自分というコンテンツの白紙委任

と同じなのだ。後から「あれは酷い」とか言ってもムダだ。

なーに、テレビは放送法に縛られているから、「ない」ことを「ある」と言ったりはしないし、「かも知れない」的なものはそうだという言葉をつけ加えている。視聴者がそれに気がつくかどうかは別だけど、厳しくつっこまれれば「断定なんてしてません」と言える程度の「逃げ」は打ってある。

だから、もしそういった類の利用のされ方が嫌なら、

テレビに出ない

ことだ。出なけりゃ出ないってことをコンテンツにされてしまうかも知れないが、下手に出ればもっと「活用」されてしまうから、出ない方がずっとマシだ。

まぁそんなカラクリを知っているから、テレビに出たがる人の気持ちがよくわからないのよね。

PS.

togetterのまとめがある

番組制作における演出のあり方~バラエティとドキュメンタリーと

これは制作する側についての話なので、ここで言ってるのとは逆の立場。私は「出るってことはそーゆー覚悟が必要なんだよ」と言っているけれど、だからと言って制作する側の横暴が許されるとか、そーゆー類のことは言ってない。

ただ、こんなことはもう何度も何度も言われて来ていることで、それでテレビが行動を改めたとゆー話は聞いたことがない。つまり、もう

言ってもムダ

だということだ。とゆーか、このエントリは要するに「テレビになんて言ってもムダだよ」ということを言ってるに過ぎない。言ってもムダな相手にgdgd言う暇があったら、自衛するまで。それでテレビが良くなるかって? 明日死ぬ奴に「将来のことを考えろ」って言う意味がある?

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