私が雑文を書く最大の理由

毎日ではないけれど、私はせっせと雑文を書く。

このページにはアフェリエイトは貼ってないし、ワナビーでもない。まぁ文章を書くこと自体は、売文書く時の訓練でもあるし、そもそも嫌いじゃないんだけど、それはモチベーションとしてたいしたことはない。

私がここで雑文を書く最大の理由とは、私自身が

生越昌己の文章が好き

だからだ。それも「俺の文章すげーな」ではなくて、第三者的に好きなのだ。その「最大のファン」のために雑文を書く。

なんてことを言うと、ナルシストめと言われるんだろうが、一人称的な好きではない。だから、あえて「私の文章」ではなくて「生越昌己の文章」と書いたわけだ。彼の文章が読みたいけど、待っていてもそれは書かれない。「生越昌己」が書かなければ書かれないのだ。だから文章を書く。

まぁそれは考えてみりゃ当たり前のことで、自分で書いてるんだから、「波長が合う」のは当たり前だ。自分の好きなことを、自分の好きなように書くのだから、自分が嫌いであろうはずがない。よく、作家でもアマチュアでも「自分の文章が嫌い」とか言う人がいるのだけど、私はそれが理解出来ない。私は私の文章の第一の「ファン」なのだ。

これは別の言い方をすると、「読みたい文章を書いている」ということでもある。だから、ここで「こうすべし」的なことを書いている文章は、実は自分に向けて書いたものだし、いろいろな批判の類は自分にも向けられている。表面的には若者に向けられていたり、誰かをdisっているように見えるだろうけど、そういった対象の持っているものは「自分にもある」とか「自分も含まれている」と思っている。と言うか、そういったネタだから書こうかという気になるし、そうでないネタはイマイチ気乗りがしない。まぁ無理やり書いてそれなりにブクマ集めたりしてるのだけど、本意じゃない。あくまでも私が書くのは、

自分で読むため

なのだ。

これは雑文に限らず、どっかで書く連載の類、書籍の類もみんな同じ。一番重要な読者は自分自身であり、自分が読みたいから書いているのだ。

ここはいわゆる日記とは違うので、「日々の記録」という意味はない。確かに「いつ書いたか」ということが無意味ではないけれど、そこに重心はない。そもそも、そういった「いつ書いたか」が重要な日記は、子供の頃から苦手だった。日付はあくまでもネタに対するメタ情報に過ぎない。だから、古いエントリを読んでも、あまり違和感がない。だから、いつでも読める。いわゆる「懐しさ」を引き出すのは、「その時」を知っている自分だけ… だと思う。

ま、そんなわけで、私は私が書いた文章が読みたいから書いている。私が読んで楽しけりゃそれで目的の半分は達しているわけ。