小学校でインターネット?

最近、某小学校の教師が区の条例を無視してホームページを作ったとかで処分されそうだとか、そのために助けて欲しいとか、その話が広まった途端に教育委員会が軟化したとかとゆー話が、あちこちのメーリングリストで流れている。この事件については色々と思うところもあるのだが、それについてはそれぞれのMLに書いたので、ここでは書かない。個人を一方的に攻撃するのは私の主義に反するし、このページは個人攻撃のために使うつもりはないからだ。そこで、この話をもう少し一般化して「小学校でインターネット」とゆーことについて書いてみようと思う。

インターネットは、社会である

そこには善意もあれば、悪意もある。また、同じ善意でも、あなたの善意と他の人の善意は違うかも知れない。そういう多様な価値感や意識が、インターネットの向こうには存在している。だから、「学校教育にインターネット」と言う前に、まず「社会」とは何かとゆーことを教えなくてはならない。インターネットの向こうには「生の社会」が存在している。だから、もしかしたら、小学生はそんな「社会」に生で触れるのは無理かも知れない(そうでないかも知れない)。だから、いきなりインターネットに出て行く前に十分そのことを考えてみて、「無理だ」と結論が出たら、さっさと諦めるべきである。確かに、その結論はちょっと見にはもったいないかも知れない。しかし、

子供にはまだ早い

という結論であっても、それはいいのではないかと思う。なぜなら、インターネットの向こうには生の社会があるのだから、「インターネットを使う」ということは、「社会に出る」のと同じ意味を持っているのである。

「強姦禁止法(正式にはもっと長い名前)」の中に「13歳に満たないものについては、同意であっても強姦とみなす」という個所がある。これは別に日本の法律がセックスそのものを禁止しているというわけではない。「セックスして良いかどうかを子供が判断するのは無理だ」と言っているのである。つまり、

子供にはまだ早い

のである。これと同じことがインターネットにも言えるという可能性は小さくないように思われるのだ。

なぜこーゆー主張を展開するかと言えば、小学校でインターネットを使うという話の延長には、

インターネットが子供中心の社会になる

ことの危険があるからである。「子供が見るかも知れないから、○○がやめましょう」とゆーことになれば、大人が大人になる機会がなくなってしまう危険性があるのだ。「大人」が何であるかについての私の主張は、ここに書いてあるが、要するにこれは、

善悪が自分で判断出来るのが大人

ということである。しかし、「子供中心の社会」になってしまえば、情報の受け手が、「善悪を自分で判断すること」によって情報選択をすることによる情報入手が否定され、

既に善悪が判断された情報のみが提供される

ということになる。これはすなわち、

検閲の肯定

なのである。そもそもが「善悪の判断」などというものに絶対的な指標はない。だから、どうしてもそれをやるとすれば、それをやる人の恣意的な主張になってしまうわけである。

一例を挙げよう。例えば、「殺りくの場はメディアに流すべきではない」という主張は一見正しい。しかし、人は戦争による殺りくのシーンを見ることにより、平和の重要さを知るのである(「想像」で理解出来る程、こーいったものは甘くはない)。「殺りくの場は酷いからメディアに流すべきではない」ということは一見正しそうな主張なので、誰からも支持を受けそうである。しかし、だからと言ってそれを通してしまえば、戦争による悲惨さを伝えることは困難になってしまうのである。ここに「善悪の判断」を誰か他人(具体的にはどこかの機関)に任せてしまうことの危険があるのだ。

確かに、「インターネットでたくさんのお友達が出来ました」ということは一見素敵だし耳触りがいい。しかし、それは「おじさんとのセックスで感じるようになりました」とゆーことと同じようなことかも知れないのである。

どこが同じなんだ? というかも知れないが、大人になれば「セックスで感じる」ということは悪いこととは言われない、むしろ「いいこと」である。この話で問題となるのは、それが「小学生」だからなのである。

ところで、こーゆー話になると、すぐ

子供には子供向きのフィルタをつける

という話になるのだが、それは意味もなくなるし、危険でもある。なぜなら、インターネットをやるとゆーことは、社会体験だからだ。フィルタをつけた「温室」を体験させることに意味はない。

このような話をすると、「子供がインターネットを体験出来ないのか?」ということを言い出す人もいるだろう。しかし、「子供」や「大きな子供(学校の先生のこと)」のように、社会を知らない人にもネットワークを体験させることは可能である。それは「LANを使えばいい」のである。

つまり、まず学校内で色々やるのである。今まででも、学校新聞や校内放送があったはずだ。それと同じノリでやれば良いのである。。確かにそれらは新聞ごっこや放送ごっこだったりするわけであるが、それでも新聞や放送がどんなものであるかとか、どうやって作られるかの勉強にはなったはずだ。だから、まずそこから始めれば良いのである。何も小学生がいきなり

新聞社や放送局を持つ必要はない

のである。それで色々勉強をしてから、「学校発表」みたいなノリで、外にもチョコっと出してみる…といったようにすれば良いのだ。そうすれば設備だって安く出来るはずであるし、「教育効果」という観点から言えば、より密度の高いことも可能になる。確かに学校の外には友達は出来ないかも知れないが、その欠点を補って余りある結果が出来るはずだ。また、必要なら近隣の学校と接続してもるのも良い。下手にインターネットにつなぐよりは、ずっと楽しいことが出来るだろう。つまり、

インターネットごっこ

をやれば良いのである。まずはその辺からスタートして実績を積み上げ、色々研究すれば良いのだ。何でもかんでも

世界に向かって情報発信

なぞする必要はないのである。このような「インターネットごっこ」の重要性については、私達の書いた、

Linuxを256倍使うための本(ASCII)

にも書いてある。また、その方法も書いてあるので参考にしてもらうと嬉しい。

子供がネットワークを使いこなすこと自体は悪くはない。私はそんな時代が早く来れば良いと願っている。しかし、何も急ぐ必要なぞない。下手なことをやってインターネットの未来を潰してまで、子供にインターネットをさせることはないのである。