「誠意とはお金のことです」

ということを、昔上司に言われたんだけど、きっと誰かの言葉なんだろうな。

だから、

ビジネスにならない誠意はむしろ有害

これは間違い。なぜなら「ビジネスにならない誠意」なんてのはないから。

まー結局同じことを、もっときつい表現を使っているだけなんで、「なぜそうか」ということについては元ネタで。

実はこのことは、日曜日に書いた、

株式会社ギークハウス(案)

にも関係あるし、無邪気な「オープンソース活動」に批判的であるのも同じ。どんなに「良いこと」であっても、「お金」がなかったら「誠意」はないのと同じなのだ。

ごちゃごちゃいろいろ書かないで結論を書けば、

経済的裏付けがない「誠意」は再現性がない

からだ。

もちろん、その瞬間だけのことであれば、その人の「誠意」があればそれで十分だ。全てがその瞬間で終わるのなら、ありがたく受け取ればいい。また、本当に負担のない、でもやっておくと喜ばれることの類とか、世の中にはそういったタイプの「誠意」もいっぱいあるから、まぁ全ての「誠意」に経済的裏付けが必要だということもない。

とは言え、「その瞬間」で済まないこともいっぱいある。誰かが「好意」で何かをしてくれること、それ自体は実にありがたい。だけど、「次回」はないと思わなきゃいけない。何しろ「好意」なんてのは「好意」なんだから、いつもやってくれる保証はないし、

いつもやれるとは限らない

のだ。特に、「いつもやれるとは限らない」というのは大きい。相手に「好意」が尽きていなくても、相手の「資源」が尽きていれば、行動は出来ない。「善意ある人」は自分で頑張ればいいと思いがちだが、それでは自分を擦り減らすばかりか、

自分の身内を犠牲にする

のだ。

確かに「他人のため」とか「組織のため」とかで自己犠牲をすることは美しい。まぁそれを善とする教育を受けて来た。でも、それでは続かない。続かないことは「安定供給」出来ないということだ。そうなると、結果的に周囲に迷惑をかけてしまう。

もちろん別に「お金」に限ったことではないけれど、「見合ったメリット」がないことは、無闇にやるべきじゃない。「あなた」自身が擦り減らなくても、周囲が擦り減るかも知れない。