「新陳代謝」だけが問題ではない

へだち君のエントリ。

ネトゲのキャラクターは死ぬべきである

確かに1理も2理もあると思うのだけど、「寿命」が全てを解決してくれるわけでも、古参新参のどちらもが楽しめるわけじゃない。なぜなら、結局古参の優位があることに変わりはないからだ。

逆に考えてみたら良いと思う。古参新参が仮に同じ土俵の上に立ち、常に対等であるなら、そのゲームをやり込む気が起きるだろうか? 当然、誰もが否だと答えるだろう。キャラにいくら寿命があっても、プレイヤはずっとやっていたいわけで、その辺のバランスが良くなければ結局大差がない。

システムも然りで、「経験値」がプラスに作用しないシステムが愛されることはない。「古参」になることによるインセンティブがないと、愛し続けられることはないのだ。いくら新参の敷居が低くても、長く楽しめなければ「育てゲー」的側面のあるものは愛されない。

というのもあるから、キャラだけ新陳代謝してもしょうがないわけだ。

と言えば、「新陳代謝」という話になると、私がすぐ思い出してしまうのは、

モーニング娘。

だ。

以前はあれは素晴しいシステムに思っていた。個々のメンバーが歳取ろうと「劣化」しようと、あるいは不祥事が起きようと、どんどん「新陳代謝」させるということで、全てが解決するように見えたからだ。実際、この手のグループでは寿命は長かったと思う。

それでも「モーニング娘。」というキャラクタに飽きた人達はいて、それに向けていろんな「ユニット」が作られた。それはそれでまた新たな寿命を得たのではあるが、結局のところそれらも飽きられた。それまでハロプロなものは大人も子供も喜んでいたのだけれど、今はその面影はない。これは別に「つんく♂」の能力という問題でもないだろう。

結局のところ、長距離列車のように、

乗った客はいつか降りる

ということは普遍だということなんだろう。「長距離列車」的なものになれば、客が一番多いのは走り出す時で、それから「目的地」に行けばだんだんに降りて行く。いくら居心地を良くしても、乗客は「目的地」までしか乗らないわけだ。

そう考えると、「古参」と「新参」という問題を超えて、「新陳代謝」というものが必須だということはまぁ良いとしても、結局それはそれで限界を超えられるわけじゃない。人が何らかの「目的」を持ってしまった時点で、その「目的」に対する達成度みたいなものが出来てしまうと共に「顧客」は「目的」を達成した時点で降りてしまうという、商業的問題はついて回るわけだ。つまり、「古参が有利」ということと、「何かのタイミングでやめる」ということからは逃れられない。だから、「キャラの寿命が来た」というのは、そのタイミングになってしまうし、それまでは古参は頑張り続ける。結局タイムスパンは短くなっても、古参新参の差は出来てしまうし、短かくなればその違いも大きく見えてしまう。おまけに、古参が「目的地」につくのが早いから、ビジネスとしても終わってしまう。

そんなわけで、「新陳代謝」を持ったシステムであっても、結局は停滞や序列は出来てしまう。

他方、「長距離列車」ということを考えれば、

いろんなルートをたくさん作っておく

ことで、もうちょっとマシになるかも知れない。東京から京都に行くのに、直接新幹線で行こうと、日本一周の途中で京都に寄ることになろうと、「京都に行く」ということに変わりはないし、序列もない。あちこち旅をしていれば、「旅の達人」にはなっているだろうし、主観的には1度目の「京都」と2度目の「京都」は同じじゃない。でも、「京都」で出会った人は「京都」で出会った人であるし、ある意味常に新鮮でもある。

古参新参の問題を解く必要があるとしたら、この辺に糸口があるのではないか?