ドコモの広告の馬鹿らしさ

朝の散歩にいい季節になった。

デイトレ的には悪い習慣かなーと思うのだけど、いろいろ用事も出来るし、身体にもいいはずなんで、やっぱり欠かさない。雨降ったり寝坊したりすると行かないけど。

で、お散歩コースの中にドコモショップや販売店が結構あるので、広告ポスターをよく見掛ける。最初はあれを見る度に、「馬鹿だなー」と思っていただけなんだけど、毎日のように見るものだから、あまりの馬鹿さ加減に腹が立つようになって来た。

まー、私はドコモのユーザではないので、腹を立てる義理はないんだけどさ。

何に腹が立つかと言えば、「タレントの顔の大写し」のポスターだ。いや、別にそのタレントが嫌いってわけじゃなくって、その構成ニダ。

まぁあれを見れば誰もが気がつくと思うのだけど、あのポスターを見ても

何の購売意欲もわかない

わけだ。もちろん購売意欲を増すことだけが広告の意味ではない。でも、たとえば同じように重要な「商品のイメージアップ」ということにもなっていない。他にも広告の要素はいくつもあるのだけど、早い話が何の効果も感じない。

「本当か?」と思う人は、じゃあ「ドコモの広告ポスター」に何が出ているとか、どんな構成だったか思い出してみるといい。多分、何も覚えてないと思う。それくらいまず印象がない。あるとすれば、「タレントのでっかい顔」くらいだと思う。

さらに実際にそのポスターを前にして、「ドコモ」の部分を他の携帯キャリアに変えたつもりで見てみるといい。はっきり言えば、何の違和感もない。

さらに、それを「携帯電話」から離れて、「電気釜」とか「自動車」とかに変えたつもりで見てみるといい。これもまた何の違和感もない。

なぜなら、件のポスターは「携帯電話」とか「携帯キャリア」について、何の宣伝もしていないからだ。辛うじてそれとわかるのは、ポスターに書かれている「ドコモ」の文字たちと、小さく描かれている携帯だけだ。簡単に言えば、件のポスターは

素材であるタレントのイメージポスター

に過ぎないのだ。

確かに彼女達のいくつかの画像は、携帯を耳に当てている。でも、それはほとんど見えない。だから、別に「ドコモ」である必要性はない。「au」でも「SBM」でもいいし、ラジオでもいい。

この手のタレントを使ったポスターに期待されるのは、「あのタレントの使っている携帯電話が欲しい」的な需要喚起や、「あのタレントの使っている携帯電話っていい感じ」というイメージ向上とか、そういったものだ。ところが肝心の「携帯電話」がまるっきり見えない(中には全くないのもある)ものだから、そもそも

何を宣伝しているのかわからない

のだ。単にタレントのデカい顔(本当にデカい)があるだけ。タレントのイメージポスター以上のものになっていない。

たとえば、同じようにタレントがデカく出ている、「三井住友銀行のカード」のポスターだと、しっかり「カード」を全面に出している。また、ポスターには「カードの宣伝である」というメッセージがいたるところにある。タレントのポスターとしてはイマイチな構図だけど、「あのタレントが宣伝しているカード」ということは覚えてもらえるし、イメージ的にも悪くない。つまり、広告としての目的を達しているのだ。

思い出せば、10年以上前のバブルの時代、「ドコモの広告」のような「何を宣伝しているかよくわからない広告」というのが流行った。それは経費としての広告費の消化と、使われている素材(タレントや場所)の宣伝にはなったけど、肝心の「商品」の宣伝にはなってなかった。あの時代、「作品としていい広告」はあったけど「販促としていい広告」は少なかった。「ドコモの広告」はそれを思い出させる。

もしかしたら、広告の何たるかがよくわかっていない宣伝部長あたりが、広告代理店に騙されて「イメージ広告」をやってしまったのかも知れない。広告代理店は素材になっているタレントの事務所に「いっちょドコモひっかけてこの娘宣伝しますね」みたいなことを言ったのかも知れない。そんな妄想をさせられる広告なのだ。

まぁそんなことが許されているってことは、ドコモはまだまだ大丈夫だって意味かも知れないけどね。実はそういったメッセージを送っている?

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