「立ち位置」なんていつも意識しなくていい

自分のたち位置がわからない技術者に価値はない

言いたいことはわかるし、基本的には賛成だし、私もよくそれを言うんだけど、でもそれには人それぞれの「フェーズ」ってのがあると思う。

そもそも、私が自分の「立ち位置」がわかったような気になったのは、前の会社を始める直前くらいだった。それまでは、感情的な抵抗はたまにはしても、基本的には

目の前にある仕事が自分の仕事

と思って働いていた。だから、COBOLで量産するプログラマもやれば、MS-DOSでマルチプロセスな処理も書いたし、UNIXで画像処理なんかもやったし、冬の雪山登山をして無線基地局の保守とかやったし、草刈りもやったし、ステージ照明もやった。与えられた仕事を、基本的に「こなす」ことをに集中していた。

もちろん面白いと思える仕事、そうでない仕事はあるけれど、「与えられた仕事が自分のこなすべき仕事」だと思っていたので、それらを黙々と、楽しく演出しながらやって来た。だから、「自分の立ち位置」なんてことはほとんど意識しなかった。それよりは、生き残るため、スキルアップのために、とにかく仕事を片付けていたのだ。

前の会社を作る時に、いろいろ悩んだ。なぜなら、その時に初めて「自分の立ち位置」ということを考えるようになったからだ。でも、「悩み」の本質は実はそんなところにあったわけでもなく、実は「敗北者として辞める」ことをしたくなかったということだった。

問題の「自分の立ち位置」ということそれ自体は、実は悩むこともなく一瞬だった。それまで特に意識して来たわけじゃないけれど、ある種の必然のようなものがあったのだ。

まぁ考えてみりゃ当然で、「俺の立ち位置はこうだ」と決めたところで、それに必然がなかったら立ち位置も何もあったもんじゃない。それよりは、様々な必然から

そこに立つしかない

位置に立つしかないのだ。いくら行きたい方向があっても、そっちに「足場」がなければ行きたくても行けないのだから。

そうなると、「自分の立ち位置」を意識するということは、「自分さがし」みたいなものではなくて、その「必然」を見つければ良いだけだ。「未踏の世界」に踏み込むと言えば格好はいいだろうが、「足場」のあてもなく踏み込んでも転ぶだけだ。「未踏」であろうが歩き慣れたところであろうが、正しい足場を見極められることが大事なのだ。

倫理観や人生観、あるいは能力的得手不得手、自分の進むべき道を決める要素はたくさんある。そして、積極的な生き方をするのであれば、「立ち位置」は重要だ。だけど、それにも増して大事なのは、

足場を見極める能力

なのだ。

だから、いわゆる「自分さがし」的に彷徨ったり、考えたこともないことを考える必要はない。誰かに手引かれるままに動いて良い時は、素直にそれに従っていればいい。「自分らしく生きる」なんて、単なる自己肯定になりがちだ。それよりは、「どこに行くか」「どこが足場になるのか」ということを見極められればそれでいい。そうすれば、「立ち位置」なんてのは、必然的に決まる。それが求められるまでは、我武者羅な努力でスキルアップをすればいい。そうしておけば、「悩むこと」なんてのは、実際に悩むべき問題に直面した時だけで十分になるものだ。

「立ち位置」を意識するのは、「立ち位置」を意識しなきゃいけなくなった時でも遅くはない。それよりも「足腰」を鍛えておくことだ。