池田せんせや小倉せんせをdisっても意味はない

池田信夫をはまちゃん先生が盛大にdisっている

小倉せんせをヤメケン氏がdisるために専用のblogを始めている

どちらも書かれていることにはうなづけるものがあり、心情的には理解出来ることなので、内容には賛成なのだけど、どうも無意味なことをしているなと感じてしまう。

個人的には、池田氏よりもはまちゃん先生に、小倉せんせよりもヤメケン氏にシンパシーを感じる。その方がずっとマトモに見えるし、池田氏にしても小倉せんせにしても、

顕名の卑怯者

だと思うし、そういったことは前にも書いた。あんたらいい加減自分の間違いを認めて黙れよとさえ感じる。

とは言え、彼等をdisること、彼等の間違いを指摘してあーだこーだ言うことについて、実はあまり価値を感じない。それは彼等が自らの間違いを認めるようなしおらしいタマじゃないということもあるが、それよりも

その手の活動は無意味

と感じるからである。

そもそも、現代の日本では言論の自由は保証されている。とか言うようなことでもなく、人の口には戸は建てられないものであり、言いたいことがある人は何があっても言うだろう。ましてや、自論に自信のある人達はそうだし、池田せんせや小倉せんせは当然この中に含まれるはずだ。だから、周囲がいくら間違いを指摘しようと反論しようと、黙ってしまうことは多分絶対にないし、間違いを認めることもないだろう。

そう考えれば、彼等を一生懸命disったところで、何も得るものはない。もちろん彼等の「害毒」と思われるものに対して反論をすることそれ自体が間違いではない。とは言え、彼等の主張もその反論も、それぞれがそれ自体の正しさを担保するものは何もない。つまり、「反論」が正しいと主張する根拠も実は乏しいのだ。

私はネット上で主体的自主的に書かれた文章は、

全て寝言ヨタの類

だと思っている。どんなに偉いせんせであろうと、「あるふぁぶろがー」であろうと、私であろうと、基本的には寝言ヨタの類を書いているに過ぎないと思っている。なぜなら、そこで書かれたものの正当性を担保するものは何もないからだ。あくまでも「自分」が正しいと思ったことが勝手に書かれているだけだ。

もちろん書いた本人は自らの正当性を担保しようと努力をして書く。そのために材料や論理を吟味する。とは言え、人間の営みについて書かれたものは、絶対的な「正しさ」を担保出来るものは少ない。自分の目で現に見たことは絶対的な正しさがあるような気がするのだが、ひょっとしたら自分の目にフィルタがかかっているかも知れない。「赤い雪が降ったのを見た」と言っても実は赤いサングラスをかけていることに気がついてないかも知れない。つまり、そこで信じている「正しさ」は「ひとりよがり」に過ぎない。

そういった寝言ヨタの類の「正しさ」を担保するのは、

支持

である。どれだけ多くの人に支持されるか、どれだけ多くの人を納得させうるかが、「正しさ」なのである。

と言うとよく「天動説と地動説」の話が出て来るのだけど、これとて同じことだ。もちろん説えられた時には地動説を支持する人は少なかった。しかし、今日では天動説を支持する人の方が圧倒的に少ない。それは「地動説」が多くの人々を納得させるだけのものがあったからでもある。

そして、それは時と共に変化もするし、シーンによっても違う。たとえば「原子性」ということについて、今日では「原子」が「原子的」であると思う人は少ない。素粒子でさえも原子的であることを支持する人は少ない。ところが化学になれば「原子」は十分原子的であり、それよりも下の構造について考える必要はない。「原子」が原子的でないことを支持する化学者は少数派である(物理の知識としては正しくても、化学の実用で使うとデムパだ)。一見客観的に見える科学の世界でもそうなのだ。

もちろん世の中には「少数の正論」というものは存在する。かつての地動説はそうであった。しかし、その「少数」は「まだ少数」なのか「しょせん少数」なのかによって、「少数の正論」であるか「単なる間違い」であるかが分れる。「まだ少数」な意見であれば、いずれ多くの人に支持されるはずだ。

だから、どれだけ自説が正しいと思い込んでいたところで、支持者が少なければあるいは多くなる見込みがなければ、それは正しくないということになる。

とすれば、池田せんせや小倉せんせの「正しさ」を否定するために必要なのは、反論やdisりではなくて彼等よりも多くに支持される主張をすることだ。それも「2ちゃねらー」とか「はてな村民」みたいなコミュニティでの相対優位ではなくて、

世間一般の人達

も含めてだ。だから、disったり反論してる暇があったら、彼等よりも広く一般に支持されると信じる主張を展開するべきだし、「支持者」を集めるべきではないか。