「顕名の卑怯者」について

よく匿名を批判する意見として、いわゆる「犯罪」関係のことは別にすると、「匿名で言うだけ言って消えるのは卑怯だ」という話がある。これは確かにもっともなことだ。

昨日のエントリのこともあって、じゃあそれがなんで「卑怯」なのかということをツラツラと考えてみたんだけど、それは

反撃されることを避けようとする

から「卑怯」なんじゃないかと考えてみた。となると、これは実は「匿名」に限った話じゃないんじゃないかと思ったわけだ。

ネットで誰かをdisると、disり返されることがある。disりでなくても、批判の類であっても猛烈な反発の類があったりする。もちろん理由なくdisったり批判したりするわけでもないわけで、disったり批判したりする側に理がある。そしてそれに反論する側反発する側にも理がある。「ネット上の意見はそれはそれ」なんだから、あたり前のことだ。

つまり、誰かをdisったり批判したりすれば、必ず反撃されるというリスクがある。だから、disったり批判するということは、反撃をくらう覚悟が必要なわけだ。それゆえ、理論武装するなり、「強い心」を持つなりしなけりゃならない。

「匿名」で卑怯だとされるのは、こういった「反撃」を受ける覚悟を持たず、一方的に言うだけ言って逃げてしまうからだと思う。「反撃」が正当であるかどうかとは関係なく、反撃することすら出来ない。つまり言われっぱなしになるわけだ。「名無し連合」に反論したところで、塗り箸で豆腐をつまむようなものだ。

ということで、ここで乱暴にも

反撃を受けようとしないのが卑怯者

という仮定を置いてしまう。

そうしたら、これは別に匿名でなくても自分のblogでも出来てしまう。前のエントリを読んだ人ならこれから言うことはわかってもらえると思うのだが、コメントを承認制にしてしまって、「茶坊主」やら「都合のいい」コメントだけ承認する。そうすれば「反撃」は見えなくなる。

「脳内あぼーん」すると同時に、あぼーんしてしまう。そうすれば反撃を受けてない姿が演出出来る。ぱっと見には「反撃がない = 全員賛成」に見えてしまう。脳内あぼーんしてしまったと同時にそういったコメントのことを忘れてしまえば、「反撃によるダメージ」は0になる。

確かに「匿名の卑怯者」達はうっとおしい。言うだけ言って消えられると、ストレスだけが残ってしまう。また、つまらない荒しコメントが並ぶのは、「割れ窓」理論から言っても好ましくない。blogなんて「俺天下の掲示板」みたいな側面があるから、コメントを承認するしないは各人の自由でもある。

とは言え、匿名顕名に関わらず、都合のいいコメントばかりを承認するということは、「反論者の反論の機会を奪う」という意味で、結果的に「匿名の卑怯者」と同じことをしていることになる。

つまらない荒れ方を避けるために、コメント承認制というのはしょうがないと思う。あまりに痛々しいコメントしかしない人はブラックリスト入りさせるのもしょうがないと思う。第一、全ての反論に再反論をする必要もない。でも「正しい俺」を演出するためにそういった手段を使うのは、結局「卑怯者」ではあるまいか。まぁ反論したい人は結局どこかで反論しちゃうから、そういった封殺はあまり意味があることでもないとは思うけど。

確かに「ノーコメントでよろ」と思うことは少なからずある。でもまぁそんな時は潔くそのエントリはコメント欄を閉じてしまっておけばいい。その時はどこか別のところで反論すりゃいい。いけないのは、「オープンですよー」な顔をしておきながら、都合良く偏向させてしまうことだ。

というようなことを書こうと美容院で考えていたら、タイムリーなコメントがついてた。

PS.

だらだらとRSSを見ていたら、古い宋さんのメルマガに、

批判されるのも批判精神

なんてのが書いてあった。私がゴチャゴチャ書くまでもなかったかなぁ…

「顕名の卑怯者」について” への2件のコメント

  1. ふたたび、おじゃまします。
    そこはしかし、“池田信夫”という名前で“反論コメントを削除する人”という批判を受けるわけですから、「匿名の卑怯者」と同列には論じられないと感じています。正々堂々と卑怯である、とでもいいますか^_^;

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