義人はいない。一人だにいない。

本日の説教は、ローマ人への手紙3章10節からです… ってわけじゃない。

津田さんが、

MIAUの後見人問題と池田信夫氏のブログ、今後について

という話を書いている。話の発端は、池田信夫の、

MIAU「後見人」になった公文俊平の正体

らしい。元の池田氏のエントリを読むと、例によって

私怨をベースにした邪推と誹謗中傷

なんで、多分名誉棄損とかで訴えれそうな気がするのではあるが。

池田氏が「あまり広く知られていない個人的なトラブル」を元にほとんど誹謗中傷みたいなエントリを書くのは、そうそう珍しいことではないので、「ああ、またか」でしかない。また、「池田氏のblog」であろうと「2ちゃんねる」であろうと、私にとっては「ネットの上のこと」でしかないから「便所の落書き」と大差ないと思ってるんだけど(これについてはそのうち書く)、当事者の津田さんにしてみればいい迷惑だろう。

で、件の池田氏のエントリに対するコメントに津田さんは返事を書いているのだけど、それを見れば「御苦労様」と同情してしまう。池田氏のようなEQの低い人と関わるとこういった目にあうんだよという、いいネガキャンにも見える。

津田さんの苦労を見てると、「そりゃー池田信夫や公文俊平なんかと関わるからだよ」とか言いたくもなるし、そんなエントリを書こうかなーと思ったんだけど、よく考えるとこれは間違いだ。

ネット上の「札付き」の人は結構いる。私のお友達付き合いの中にも結構いる。過去をひっかき回せば私もその分類に入るだろうし、ドメインを変えればまたそのドメインの中でそんな人達はいる。もちろん「池田信夫」とか「公文俊平」とかもこの分類に入るだろう。

面倒を避けようと思ったら、こういった人達と関わるのはやめることだ。「新しいこと」をやるんだから、別に過去の多少の実績がある人であっても、そんなに関係はない。だいたい、

ネットで名前を知られた人は、どこかおかしい

ことが珍しくなかったりする。特に「昔」はそうだった。昔、名前を売った人は、空気読まずに目立っていたり、普通のネット民の持っていないスキルがあったり、「非常識だけどそれでいて進歩的で正しい」意見を持っていたり。そういったのが普通だ。と言うか、そんな人でなかったらネットで目立つ価値もない。目立っていて印象深いメッセージを発している人は、だいたいどこかおかしかったり、叩けばホコリが出て来たりする。だから、こういった人達と関わると、だいたいどこかで敵対していたり、「過去の誤ち」を握りあっていたりするし、世間の人達でネガティブ評価の好きな人達に悪口を言われたりする。

人材なんてのは、あるようでないものだけど、ないようであるものでもある。新しい人はどんどん育っている。だから、何か「新しいこと」をやろうと思ったら、いわゆる「権威スジ」を当たらなくても、実働には問題ないようにすることが出来る。また、老人ばかりの組織にならないで済む。まだ「手垢」のついてない若者を登用することは、いろんな意味でメリットがある。

とは言え、最初に書いたように、この考えは間違いだと思う。なぜなら、表題に書いたように「義人はいない。一人だにいない」からだ。

だいたいにリアルワールドは泥臭く汚ないものだ。そういったものと関わりながら、社会的な活動をすれば、どうしても汚れる神でさえも手を汚すのだ。それは身も心も汚れてしまうこともあれば、洗えば落ちる程度の汚れのこともある。身や心を汚さなきゃいーじゃんという話もあるけれど、たいていの人は

洗えば落ちる程度の汚れでも、
内面まで汚れていると解釈する

ものだ。他人は客観的にしか物事は見えないし、「汚れている状態」がどのレベルであるかを知る術もなかなかない。また、そんな評価は人それぞれなので、ある人にとっては耐えられない汚れであっても、他の人にとってはどうってことのない汚れだったりする。まーとにかくリアルワールドを含む活動をしていれば、汚れて当然なのだ。

長らくそういうことをやっていれば、人によっては「権威者」になる。そこをあてこんでいろいろな「偉い人」になってくれることを期待するわけだけど、長いこといろいろやっていれば、汚れもそれなりについて来る。本来洗えば落ちるような汚れであっても、だんだん「しみ」になったりする。それは事情のわかった人にとっては「勲章」であっても、「汚ないものは何でもダメ」な人にとっては、薄汚ない汚れに過ぎない。

そんなわけで、たとえ「若者」であっても熱心に活動すればあっと言う間に汚れてしまうし、そうでなくてもしばらく続けていれば汚れてしまう。それはリアルワールドで活動をする者にとっては宿命と言ってもいい。いや、私なんぞは、

汚れてないのは怠けもののしるし

とさえ思う。だって「綺麗な作業服」って「働いてない」って意味じゃん。

そう考えると、薄汚ない年寄も、「これから」の若者も、実は「綺麗さ」という意味では大差ない。よく働く奴は早晩汚れる。

だから、池田氏や公文氏みたいな人達を「汚れている」とか「面倒臭い」とかという理由で排除したところで何のプラスにもならない。むしろ

汚れているのは実績の証し

だと思ってもいい。このことはよく「清濁併せ呑む」的な言葉でもって肯定されているのだけど、そういったのとは関係ない。表題に書いているように「清」なんてものがあると思うことが、ファンタジーだということだ。

結局のところ、働きのいい奴に義人はいない。一人だにいない。だから、本当に役に立つ人には、誰からも文句をつけられない人いない。だから、老人を頼るのも若者を登用するのも、「文句を言われない人」というような減点法的視点に立つのではなくて、「何を成してくれる人か」という視点で探すべきだ。「クリーンな人」ばかり集めたって、どうせ何も出来やしない。

まぁそれとは別に、いきなり味方を後から撃つような発言をする池田氏はどうかと思うけどね。

PS.

誤解があるようだけど、これは「汚ない人が使いものになる」という意味ではない。「使える人」ってのは結果的に汚れてしまっているから、「汚ないから」という理由だけで排除しても無意味だということ。どれだけクリーンでも、「味方を後から撃つ」ような人は味方になって欲しくないというだけ。

多分、「汚れるようなことをしなきゃいい」的なことを言う人もいるだろうけど、「汚れ」ってのはほとんど全てのものにある。汚れ方は様々であっても、完全にクリーンなものはないと思った方がいい。長く働いていれば、わずかな「汚れ」であっても、だんだん煤けたようになってしまうのは何にでもあること。

義人はいない。一人だにいない。” への6件のコメント

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  2. やっぱ、レッサーパンダになるのがいいんですかね。。可愛いけど、腹だけ真っ黒。。(^^;;

    身にまとった「汚れ=ゴミ」を、燃やしながら、走ってる人も、みじかに、いますが、ついてくのはきっつ。

    「粗にして野だが卑ではない」って、行きたいものですが、なかなか。。

    めざせ、「スナフキン」。ちがうか。。

  3. このエントリーを読んで、色々と反省をしております。汚れについての解説、ありがとうございました。

  4. 今の自分にとっては、癒される文章です(おごちゃんの意図するところとは違うかもしれませんが)。
    私も「札付き」の部類なのでしょうね。

  5. え? 私は「はりすさん」が札がついてるかどうかすらよく知りません。

    他でも書いてるんですが、他人の「個体認識」が苦手なんです。disった相手を後で持ち上げたりするのは日常だしw

  6. いえ、私の属する業界(セクシャルマイノリティ)の話なので、おごちゃんはおそらくご存じないですよ。

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