高学歴? 俺は好きだぜ

しばらくRSSを消化しないでいたら、みんなこんな楽しいネタで盛り上がっていたのか。

没落エリートの出現—ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー

多分そこらじゅうで盛り上がってるんだろう。読んでないけどw いかにも釣れそうなネタだもんなぁ。小飼氏楠君も盛大にdisってるんだけど、私はこういった人はかわいくてしょうがないし、これこそが「高学歴」の最大な価値だと思うし、こういったのが大好きだ。つまり、

自分をエリートと勘違い

しているのが、「高学歴」の最大の価値だと思うのだ。

昔は、学歴なんてどうでもいいものだと思っていた。頭を鍛え、精神を鍛えれば、学歴による差なんて超えられると。まぁそれにどれだけ成功したかはわからないけど、仕事をする上では実際に困りはしない程度にはなった。楠君だってショボい学歴でそれなりにやってるし、小飼氏に学歴の話になると不運としか言いようがない気がするけどあの通りだ。だからそういった人達に学歴のありがたさの話なんて聞いても、文字通り

猫に小判の価値を聞く

ようなもんだ。世の中の成功者にありがちの「学歴なんて無価値」みたいな話を展開されてそれまで。だから、二人のエントリは最初の3行しか読んでない(なんてことはない)。

学歴否定の話の時にはどうも「上澄みと沈殿物」の話になってしまう。いわく「学歴なくても××氏は」となるか「○大出てもねぇ」かどっちかだ。でも、こういったのの大事なのは、その「メジャー」がどうなのかであるから、「上澄みと沈殿物」の話をしても意味はないと思う。

という前置きをしておいて話を書くのだけど、私は「高学歴」には2つの価値があると思う。

その第一で最大なのは、冒頭に挙げた

自分をエリートと勘違い

していることだ。

実はちゃんと勉強していれば、大学なんてどこを出ても同じはずだ。だって、大学でやるべきカリキュラムなんてのは、だいたい同じになっているはずだから。でなかったら「大卒」というくくりで話をするのはナンセンスだ。「大学のカリキュラムはだいたい同じ」という了解があるからこそ、「大卒」ということに意味がある。

もちろん現実にはそうなっていないことも事実なんだけど、それでも「上澄みと沈殿物」を除けばそんなに間違っちゃいない。だから、同じような成績で大学を出ていれば、本来であればどこを出ても同じはずだ。

ところが、いわゆる「いい大学」を出た奴等は、どういうわけだか自分をエリートだと勘違いしている。現実に習ったことに違いがあるわけじゃないのに、「いい大学」を出た奴等はエリートだと勘違いをし、「底辺大学」を出た奴等は落ちこぼれだと勘違いしている。

この違いがどこで効いて来るかと言えば、社会に出てから問題を取り組む時の態度に効いて来る。自分をエリートだと勘違いしてる奴等は、多少の困難があっても「エリートの俺に出来ないはずがない」と思って問題に取り組む。自分が落ちこぼれだと勘違いしてる奴等は、簡単なことでも「どうせ俺に出来るはずがない」と思って問題に取り組む。つまり、問題に挑む時の姿勢がまるで違うのだ。基本的能力が同じだとしても、当然前者の方が問題を解く時には有利だというのはわかると思う。つまり、同じ能力であっても

勘違いによるレバレッジ

が効くのだ。そこそこ社会経験してしまえば、「だいたい同じ」の方が効いてしまうのだけど、こと新人の時には「勘違い」の威力は大きい。新人教育をやったことのある人は、この辺のことはわかってくれるんじゃないかと思う。

もう一つの価値は彼/彼女自身と言うよりは、その友達だ。

「いい大学」を出た奴等は「いいところ」に行く。「いい会社」とか「高級官僚候補」とかだ。もちろん最初はぺーぺーでしかないけど、歳と共にだんだん偉くなって行く。もちろん学閥も効いて来る。「いい大学」を出た奴等は、縦に横に人脈がある。これは本人の学力や、今のその大学のレベルとはあまり関係がない。むしろ「過去の栄光」の方が大事だ。でもまぁとにかく、「いい大学」を出た奴等は「いい人脈」を持っている可能性が大だ。つまり、その人個人の能力とは関係なく

人脈によるレバレッジ

が効くわけだ。これもそこそこ社会経験があれば、特に外交的であればあまり関係はないのだが、あんまり人脈を作るのが上手でない人は結構効いて来る。

つまりこんなふうに、本人の能力をより大きくするような効果が「高学歴」にはあるわけだ。だから、「メジャー」な部分を見るなら、「高学歴」であることは悪いことじゃない。だから、学歴しか事前情報がなければ、当然高学歴の奴の方が評価は高い。だから、高学歴の奴等は大好きだ。

逆に「低学歴」であっても、こういったことがわかっていれば、その違いは乗り超えられる可能性がある。それは結構難しいのではあるけどね。「学歴なんて関係ねーぜ」とか言ってる人達はそれを乗り超えているのだ。

という話を読めば、「価値のない高学歴」というのもわかると思う。件の記事で表現されているような「負け犬根性」の奴等とか、友達や先輩と仲良く出来ない「非コミュ」な奴等とかは、ここで挙げたような「レバレッジ」が効いてくれないわけで、それが効いて来なけりゃ個人の能力そのものしか評価出来なくなる。

いやむしろ「小賢しい奴」の方が効いて来てしまってマイナス評価になってしまう。「○大出たくせに使えねー」とかって奴だ。件の記事を読めば読む程、「小賢しくて使えない」という「崩れエリート」の姿が見えてしまう… と言ってしまうと、人格否定になってしまうだろうか。でも、はてな方面にありがちの「いい大学の学生が書くblog」には、そんなふうにして一生懸命自分が「使えないエリート」であることを宣伝しているのが多いように見える。

最後に余分なことをつけ加えるんだけど、私はどうもこの「いい大学」を出た奴等を「高学歴」と言うのはおかしい気がしてならない。↑の文章では元々の使い方を貸りてるので「高学歴」と書いたのだけど、本来はちょっと違う気がする。私が思う「高学歴」は、

博士 > 修士 > 学部 > 高校 > 中学

という奴の方なんだが。件の人は学部のようなので、「何勘違いしてんの?」と思ってしまう。

PS.

なんか皮肉で言っていると思っている人がいるみたいだけど、これは皮肉じゃなくて素で思っていること。問題を解く時に「やれる」と思ってやる人とそうでない人では自ずと結果は違うし、人の能力実力なんてのは、その人だけの能力実力じゃない。この手の「レバレッジ」の効果は馬鹿にするべきではない。

高学歴? 俺は好きだぜ” への7件のコメント

  1. > 勘違いによるレバレッジ
    あー、空手の試し割りもそうね。
    あれは出来ないと思ってやると本当に出来ないもので。
    で、いっぺん出来ちゃうと自信が付いて簡単に出来るようになる。

  2. ピンバック: おやじまんのだめだこりゃ日記

  3. >実はちゃんと勉強していれば、大学なんてどこを出ても同じはずだ。
    >だって、大学でやるべきカリキュラムなんてのは、
    >だいたい同じになっているはずだから。
    訳あって二つの大学(学部は一緒)に4年ずつ通った経験から一言。
    「いや、もう、全然違います」
    大学の授業ってのは教授・助教授の趣味の世界が全開になってますから、
    教員の質がカリキュラムの内容やら授業の質やらに直接的に影響します。
    いい先生がいる大学はやっぱり違います。

  4. ええ。本当はかなり違います。

    でも少なくともタテマエは同じってことになっているし、それを前提として社会が成り立っているのもまた事実です。と同時に違うという暗黙の了解もあるのもまた事実。

    とは言え、院と学部程は違わないわけで。

  5. ピンバック: 次なるもの » Blog Archive » おごちゃんの雑文 » Blog Archive » 高学歴? 俺は好きだぜ

  6. 博士>修士>学部>高校>中学

    だけど、採用に関わっている人には分かると思うが、

    博士>修士≧学部>高校>中学

    になってきています。

    特に、底辺校では 修士=学部 となる。

    学校のそれぞれのステップで、そのレベルの内容を人に教えられる程度に身についているかどうかが、「高学歴?俺は好きだぜ」の趣旨でしょう。

    その意味で、前のレベルをきちんとクリアしてステージアップしているかどうか?がキーとなる。

    その意味で、高学歴=高偏差値 は間違っていない。全部がそうだとは言えないのだけどね...

    偏差値50以下の学校の修士は、東大・京大の学部以下というケースを多く見ています。

  7. > 修士≧学部

    一流と言われるところでも、修士のレベルって実は微妙だったりしますね。就職浪人が行くもんだみたいな部分もあるし。

    でもそれは、昔「ダメな大卒よりもちゃんとした高卒の方が良い」とか言われたのと似たようなものだったり、「昔の高卒 > 今の学部卒」みたいなのがあったりしますから。

    つーことで、結局は「上澄みと沈殿」の議論になりやすいのではないかと。

コメントは受け付けていません。