オープンソースにおける設計者や企画者の地位

私には書きたいプログラムがいっぱいある。「書きたい」ということも確かではあるが、その動機の根源は「使いたい」であり、存在してないから書くしかないので、書きたいということになるものが少なくない。ところが自己の能力には限りがあり、また書きたくても書く時間がなかったり、優先度の高い仕事があったりして、書けないでいる。

とは言え、「使いたい」であっても具体的なイメージがあるわけなので、外部的仕様はかなり決まっているし、それを「書きたい」と考えているわけなので、技術的課題はかなり解決をして、「書けば書ける」というレベルまで見通しは立っている。単に「書く手間がないから書けない」という状態なのだ。

商業的開発をされるソフトウェアの場合、このようなところまでできていれば「後は作るだけ」であり、経済的な見通しが立てば実行に移すだけである。企画や設計は終わっているわけだから。

ふとオープンソース界を見ると、商業的開発の時の企画や設計の地位が高いことに対する反発なのか、実装者の地位が異常に高いように思う。確かに作らないと存在できないし、金もらって作るわけじゃないから、その「心意気」の部分もあってか実装をするということが尊いとされるのではないかと思う。

とは言え、いろいろなオープンソースのディレクトリサイトを見ると、特定分野に偏りがあることを感じるのは私だけではないはずだ。多い分野では選択に困るほど種類があり、少ない分野ではまるでない。多くの人が注目したりよく使ったりするソフトウェアはそれだけ多く作られるというのは当然と言えば当然であるが、酷似したものがあったり、途中でモチベーションを落として中断しているプロジェクトがあったりということを見るにつけ、「オープンソースと言えどもちゃんと企画立案や設計をする人が必要なのではないか」という気がする。

ということを見ると、私のように「ないから作りたいが、作ろうにも時間がない」というもののアイディアをうまく生かすような道はないものだろうかと思う。また、そのような企画立案した者もソフトウェアに名前が残せるような仕組があると良いように思うのだが。そうすれば、「経験豊富で見識は広くなったのだが馬力や新技術の追従に欠ける」ようなロートル技術者であっても貢献できるし、そういった「舵取り」ができれば、ソフトウェアの分布の偏りも減るのではないだろうか。それはいろんな意味での人材活用になるのではないかと思うのだが。