ネット規制は我々の怠慢の結果ではないか?

ネットを巡る規制が厳しくなりつつある。

ネットの規制については、今や与党も野党も一体になっているとさえ言える。つまり、国民の大多数がそれに賛成しているのと同じだ。無論ネット上では、その規制に対する問題点の指摘がされているが、世論にはなっていないような気がする。

これは「ネット人」が「それ以外」を置いてけぼりにして来た結果ではないか?

日本のネット人口は総人口の約半分くらいだと言われている。関わり方はいろいろだから、これらが全部ヘビーユーザーではないし、年齢別には大きく偏りがある。また、多分この手の統計には携帯電話も含んでいるだろう。だから、正確な数字を持って来て論じることは出来ない。だから「だいたい半分くらい」と認識しておくことにする。

「ネットに主体的に関わっているであろう人口」となると、これからもっと減る。ここで乱暴に「mixiをやっている数」ということにすると、1000万くらい。これも誤差がいっぱいあるし、ネットのヘビーユーザであってもmixiと関わりたくない人もいるだろうが、多い方の誤差少ない方の誤差両方あるとして、大雑把に「1割くらい」と認識したらいいと思う。

つまり、ごく大雑把に総人口の1割くらいの人が「ネット界は何であるか」ということを認識して行動し、総人口の半分くらいの人がそういった様子を見ることが出来ると考えられる(もちろんフェルミ推定だけど)。

これらの中で「ネット規制はヤバい」と認識している人となると、もっともっと少ない。「ネットは恐いところ」と認識して自衛しつつ行動している人が多いところを見ると、「もっと規制してくれ」と思っている人も少なくないだろう。法案にいろいろ危険な部分が隠されているが、たいていの人はそれに気がつかないだろうし、気がついていても「背に腹は替えられない」とか思って賛成している人もいるだろう。

そうしてみると、日本国民の大多数にとっては「他人事」であるし、そういった他人事でない人達の何割かは「賛成」になっている。今や日本の政治は過度の「大衆迎合」が進んでいるから、理念的に問題があるかどうかとは全く関係なく、

支持者が多い

ということでネットは規制方向で政治が進んで行く。

日本人の政治的無関心は、もはや「国技」と言ってもいい。私も他人のことを言えたものじゃない。なんせ選挙に行かんわけだし。

ここで問題だなと思うのは、政治的無関心のことではなくて、世論に規制を支持させてしまっているということ。

ネットには独特の倫理が存在している。たとえば、

  • 実名は危険
  • 軽口は炎上の元
  • ネットはフラット
  • 教えて君には「ググレカス」

などなど。挙げればキリがない。

この多くはネットの上にいれば常識だったり、ネットの「空気」だったりするし、ヘビーユーザにもなれば「それが当然」とさえ思うことだ。だから、「ネット的」には正しいことである。

とは言え、リアルワールドでどうかと言えば、

  • たいてい実名がついて回る。所属までついて来たりする
  • 飲み屋、給湯室、自分の部屋では自分勝手な愚痴や軽口はいいガス抜き
  • 年齢、経験、職制、社会的地位と人間関係は無縁じゃない
  • すぐ答えられることは普通教えてやる

ということで、まるで正反対だ。まぁ正反対なものを選んだんだけど。

つまり、「ネット界の常識」と「リアルワールドの常識」でまるで正反対みたいなものが少なからずある。普段ネットで「ネット界の常識」に従った行動している人がリアルワールドでまで同じことをしていると、「イタい奴」というレッテルが貼られてしまうことだって少なくない。つまり、

ネットとリアルでは常識が違う

ということが共通認識となっている。

とは言え、人は基本的にはダブルスダンダードを嫌うし、それについて行くのも簡単じゃない。リアルの常識の通りにネット上で行動したいのが、生活の基盤がリアルにある人の普通の行動だろう。だから、そういった人達は「リアルの常識」がネット上で通用することを願うものだ。

そうして考えると、「ネットの規制」を期待する人達の多くは、「リアルの常識がネットで通用」することを期待している人達ではないかと考えられる。

たとえば「実名は危険」ということは、その実名を使って「悪いこと」をされてしまう危険があるからだ。実名はネット上ではその場に留まって身動きが取れない状態と同じだが、匿名は好きに動き回れる。だから、後に回って殴りつけることも、電柱の陰から石を投げることも、物陰で陰口を言うことも出来る。実名だと防戦一方のことが少なくないが、匿名なら攻撃が容易だ。そうなると、防御力の低い人は匿名になる方が安全だ。逆に防御力がなかったら実名は危険だ。と、段階を追って考えてみれば、何らおかしいことはない。

ところが、「リアルの常識」で言えば、「匿名で悪いことをするのは卑怯」であり、「理由はどうあれそうなんだ」ということになっている。理由を段階を追って考えてみても、やっぱり同じ結論になるだろう。

もちろん場所によって常識が違うのはある種当然で、「郷に入りては」も当然だろう。だから、

ネットではネットの常識

と言いたいのは当然だろうし、それ自体は間違ってないと思う。

私が表題で「怠慢の結果」というのは、そういった「ネットの常識」とか「ネット社会の仕組」というものを、リアルワールドに伝える努力をしなかったというのが「怠慢」ではなかったかということ。「郷に入りては」は正しいのだが、それについて伝える努力をして来なかったことがマズかったのではないかと思うわけだ。

だから、そういった「常識」を身につけない人達がどんどんネットに入って来て、既存のネット社会と磨擦を起こす。入って来る人が少なかった頃には「早くお前も慣れろ」で済んだ。でも今はその流入量は多いから、新しく入って来た人達が慣れるよりも速く新しい人達が増えて行き、「ネットに慣れていない人」がネット界の少数派でなくなってしまった。そうやってネット上に「異文化」が存在するようになったわけだ。

「異文化」が衝突した場合、うまくどっちかに合わせるとか、妥協点とかを見つけるということよりは、「過適応」か「反発」をする。ちょっと海外に行くと「○○では」とカブれる人は「過適応」だし、頑に自文化を堅持しようとするのは「反発」だ。素直に「郷に入りては」となる人は、実はあまり多くない。つーか、必要だけどなかなかそうなれないから、わざわざ「郷に入りては」という言葉があるんだろう。「過適応」した厨房は暴れるし、「反発」した知識人達は「ネットの常識はリアルワールドの非常識」を喧伝する。それがネット周辺に起きている諸々の現象ではないかと思う。

だから、我々が「ネット規制」に甘んじなければならなさそうな現状になってしまったのは、「異文化衝突」を起こさせてしまったからではないか。具体的に言えば、「ネットの常識はリアルの常識とは違うんだよ」ということを言い過ぎたり、「リアルの常識が通用するネットコミュニティ」というような物が存在するかのようなことを言ったりしたということ。一見正反対の立場に見える前者と後者だけど、いずれも衝突を起こさせる元であることは同じだ。

「新しい文化」は結構なことなんだけど、

いかにして浸透させるか

ということをいくらかでも考えつつ行動しないといけないんでないかい。浸透の努力を怠ったという点で、自業自得かなと反省するところ。まぁ規制されてしまったところから「解放運動」をする方が、実は「浸透」にはいいんじゃないかとも思ってみたりもするけど、何にせよ浸透させる努力は必要だっただろうし、これからもっと必要になって行くんではないかしらん。

ネット規制は我々の怠慢の結果ではないか?” への4件のコメント

  1. これまで、fj.*にNiftyserveの人が流入したり、2ちゃんの人がネット各地で「2ちゃん的」な言動をしたりするたびに、「ネットの常識」は揺るがされてきたし、また、そういう摩擦が新たな「常識」を生んできたわけだけど、ついに「ネット」と「リアル」の常識が摩擦をおこすところまで来たと言うことですね。

    でも、やはり「ネットの常識」も「リアルの常識」も多くの異文化を抱えてることを考えると、摩擦から痛みを持って生み出されるものしかないんじゃないかなという気がします。ネットに触れない人にとってのネットの常識は単なる知識を越えないと思いますし、それは本質的な人間の想像力の限界だろうなと思う今日この頃です。

  2. ええ。もちろんそうも考えます。だから、しょうがないっちゃーしょうがない。

    でも、なんか「俺達サイコー」的な上から目線のネット人の言動が気になるのですよ。確かに「郷」ですから、古参の方が立場的には上なんですが、そろそろ「それ違うんでね?」という気がして来たというのが正直なところです。

  3. ああー、それはわかります。でも「古参の上から目線」って多勢に無勢的に常に敗北してきたような気がします。

    ・・・ということは、今のままではネットはリアルの論理に押しつぶされる?元の文章の論点がやっと理解できたかも

  4. 潰されるとしたら、「悪いところ」だけじゃなくて、「良いところ」も一緒ですよね。それじゃあ困る。そうならないためには、「磨擦」を考えた行動をしなきゃなと。

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