「迷信」に惑わされないで済む程度で

牧野さんにまたつっこまれているので、あらためてエントリを起こして。

牧野の公開用日誌 2008/2/12

私が思っていたのは、まさしく

結局、査読付き雑誌とかそういうものを、専門家でない人が望む、というのは、「これなら信用できる」という判断を人まかせにする、という思考の節約を望んでいるだけではないかと思う。

というあたり。

自分が専門とする分野について、第三者の査読が必要かと言えばそんなことはまるっきりない。自分で読めばわかることに、もしかしたら自分よりも程度が低いかも知れない第三者の目を入れる必要は感じない。また、それで自分が間違ってしまっても、それは自分で責任が負えるはずだし、負わなきゃいけない。

ところが、そこに至らないもの、たとえば天文学や物理学なんかは、私は「さっぱりわからないわけではない」けど、未知のものを正しいかどうか判断出来る程度にはわからない。「今までの自分の常識を超えている」ということはわかっても、それが「正しく」超えているのか「間違って」超えているのかはわからない。そうなるとやっぱり誰かに咀嚼してもらってから知りたいと思う。

ネットの世界は極端にフラットだから、公開されているものは何でも見えてしまう。だからこそ

嘘を嘘と(ry

ということになるわけだけど、何でもかんでもその能力を持つことは出来ない。それは時として「自分の専門」でもそうで、「これから学ぶこと」については判断力がない。これはコの業界に多いだけなのかも知れないけれど、いわゆる「専門家」であっても「迷信」の類に振り回されていることも少なくない。

もちろんそんな「嘘」や「迷信」の類も、検証することが可能なものは少なくないから、手間や時間の許す人は「あれはやっぱり勘違い」ということがわかったりするのだけど、「権威筋」の話だったりすると、間違いのままいっぱい参照される(=価値がある)とみなされてしまっているものは少なくない。

客観的に検証可能な世界でさえもそうなんだから、ましてや経済とか経営とかといった客観的に検証が困難なものになってしまうと、結局「権威筋」を信用するしかない。

でもまぁたいていの場合「権威筋」は正しいことを言っているはずで、正しいか正しくないかを自分で判断できない限りは、「権威筋」を信用しておくしかない。だから、そういった「誰が言ったか」というのが意味がある状態の時には、「権威だよフラグ」みたいなのが立っていると嬉しいなと思う。

これが「リンク数」みたいな機械的なものだと、「水は答えを知っている」みたいなものが高評価になってしまって、具合が悪い。実際、「あるある」でやっていたような「健康法」の類をぐぐると、異様に高評価だったりする。「みんなが正しいと言っているものは正しい」というのは、Wisdom of Crowds的にはかなり正しいんだけど、そうじゃないものも少なくない。となると、結局「わかっている人達の目」というのが必要なんじゃないかと。

だから、「査読付き情報」というのは、そういった世界のバリバリの専門家のためじゃなくって、もう1段階下からまるっきりの素人あたりからの人達のために必要なんじゃないかと思うわけ。だから、「専門家同士の間のコミュニケーション手段としては不要」というのは確かにそうだろうと思います。

もちろん「権威」とか「査読」とかってものに頼らなくて正しさが客観的にわかると嬉しいんだけど、「迷信」の類を(積極的にではないにせよ)流配させたりする人がいたり、それを大勢が支持したりしている現状を見ると、機械的にするのは難しいかなと。

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