「顕名」ってのは、権利に属することではないかい?

いつものように小倉先生がアンチ匿名をやっているわけだが。

その是非について言うつもりはないが、私は顕名にするということは、「権利」に属することだと思う。権利と言うからには行使するとメリットをもたらすという意味でもある。

たとえば、小飼さんは「ブロガー女子」にはモテモテだ。実は私も小飼さん程ではないが、結構モテる。「なに? 生越なんてモテるわけないじゃん」と思う人は、認識を改めた方がいい。

最初に種明かしすれば、「モテる」ということに嘘はない。いや、半分嘘だ。「モテる」なんてレベルじゃない。「モテモテ」なのだ。自分の属するネットコミュニティに女性が増えて以来、いったいどれだけ「ご一緒に」というお誘いを受けたか。私が「モテモテ」だったら、小飼さんなんてそりゃもう大変だろう。それは「モテる」ということの理由を考えてみるとわかる。

世の中、「タデ食う虫も好き好き」という言葉がある。つまり、どんなにブ男であっても、それを好きになる女の存在確率は0ではないということだ。仮に私に萌える女性は10000人に1人だったとしよう。つまり「万が一」だ。でも、「万が一」であっても、そこに100万人の女性を調べれば100人もいる。100人もの女性に萌えられたら、そりゃ「モテる」なんてレベルじゃなかろう。モテモテモテモテ… だ。つまり、「どんなに確率が低くても母集合が大きければ存在はそれなりにある」というだけのこと。存在している結果だけ見れば、「すごい数」になってしまう。

その「母集合」を大きくする元は、「知名度」だ。知名度が高ければ、母集合が大きくなる。「ブサイクが売りの芸人」が「ありえない」ような美人の彼女がいるというのも、「知名度」があるからだ。だから、私がモテるというのは、別に驚威でも何でもない。「私を知っている女性」がいっぱいいるというだけのことだ。「イケメンなあなた」ならもっとモテる可能性はあるだろう。「萌えられる確率」が私よりも高いからだ。「知名度」で私にはるかに勝る小飼さんは、もっとモテモテだというのも、そういったこと。

そこで重要なのは、

個体認識される

ということだ(小飼さんのblogでは「名前力」と呼ばれている)。つまり、「○○さん素敵」の「○○さん」が認識されることが第一歩なのだ。「駅のホームで見掛けたイケメンさん」がいても、その人がどこの誰か認識されなければ、「目の保養」以上のものにはなりにくい(たまにいきなりコクるなんて話も聞くが)。単なる「一時の目の保養」と「モテ」を分かつものは、「個体認識」されるかどうかなのだ。

昔昔のある日、そのことに気がついた私は、ネット上でも極力実名、あるいは実名と深くリンクされたハンドルである「おごちゃん」で活動することにした。ここでは「モテる」という話だけをしたが、これは「働き」とか「職」とかという点でも同じだ。「発言力」でも多分そうだろう。そうなるために、「自分に属するもの」を、「自分」とリンクさせる — つまり、両方についているタグを一致させる必要がある。「実名」あるいは「コテハン」の類というのはそのためのツールだ。

もちろん、そういった「自分に属するもの」にネガティブなものがあった場合、そこに自分とリンクするタグがあれば、「損」かも知れない。「実名は損」と捉える人達は、そういった「損」の部分が大きいように見えるのだろう。でも、冷静に考えてみれば、普通の人の行動というのは、全ての人にネガティブに捉えられるものはそんなに多くない。たいていの人の行動の基本原理は「良かれ」であり、それに気がつかない人はそう多くない。2ちゃんとか見てると、何でもかんでもネガティブに捉えられているかのように見えるけれど、それは人が(日本人が?)

ポジティブな評価はあえて口にしない

だけだからだ。ネットにはいつも両論あって公平に見えているのではなくて、ネットはネガティブ情報の集まるところなのだ。

まぁそんなわけで、モテたり、いい職にありつけるためには、「顕名」というのはとても大事なことだし、多くの人がそれを避けていれば避けているだけ、それは効果があるカードだ。つまり、「顕名にする」ということは、「特権」なのだ。

たとえば、ニコ動で「御社」というタグで探すと、「初音ミク」な諸々を作っている動画に当たる。今でこそ、この会社はどこの何だというとは知られているが、最初は「ニコ動には非公式には宣伝と受け取られることが書けない」ということで、「ここです」とはうp主は書けなかった。コメントには「御社に〜したい」というのがあふれていながら、その「御社」が何であるかわからないし、知らせることが出来ないというイライラ感が最初はあったようだ。つまり、「御社」にとって「社名を出す」という「権利」がなくて悔しかったという話なのだけど、これを見ても「顕名にする」というのが「権利」であることがわかるだろう。

「誰かの悪口を書く」ということであっても、「匿名」でするか「署名入り」でするかではまるで意味が違う。

匿名で「○○さんいっちゃってる」と書いても、それはスルーしてしまえばそれまでだ。だいたい、匿名の悪意はスルーしておけば何の害もない。「匿名の悪意」なんて「強い人」なら「卑怯者がほざいてるだけだ」と吠えておけば、それで終わりだ。また弱くてガクブルするだけだったら、パソコンのスイッチを切ればいい。消えているパソコンから手が出て… なんてことはない。多分ない。ないと思う。あ、待てよ、この前友達の友達が… いやなんでもない。

でも、たとえばそこで「周囲の知人」が書いていたらどうだろう。あるいは「同業者」が書いていたらどうだろう。さすがにスルーは出来ないし、本人がスルーしたところで周囲はしてくれない。同じ内容であっても、「怪文書」はスルー出来ても「署名入り暴露記事」はそうは行かない。そりゃ裁判やら何やらで、結果的に「反撃」が出来たにしても、「少なくとも実名でそういったことを暴露したくなる何かがあった」という事実だけは、消そうにも消えない。同じことであっても、ダメージの大きさは大違いだ。どっちの「攻撃」を選択するかは「権利」に属するものなのだ。

「実名公開はリスクがあるから」と言うのはそれは嘘ではない。また「匿名は好き勝手される」と言うのも嘘ではない。でも、

実名公開で得する

こともいっぱいあるのだ。逆に、実名公開が義務になってしまったら、そのメリットが得られなくなってしまう。だからこそ私は「匿名賛成、でも俺は実名」で行くことにしているのだ。

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