私は例の「光市母子殺人事件」の弁護団については、「消極的支持」だ。つまり、「彼等のために」みたいな行動を起こす気はないが、あれを叩くための運動に与しないということ。
もちろん、件の被告人について支持する気は全くないし、弁護団もかなり香ばしいなと思っている。被害者のためには、とっとと死刑で結審すりゃいいなと思っている。
とは言え、その被告弁護団を叩く運動を支持するかと言えばそうじゃない。
積極的支持をしないのは、「支持したところで得られることがない」からだ。下手に支持すりゃ火の粉が飛んで来るかも知れないし、支持したところで何か得られるわけじゃない。いや、あるのかも知れないけど、「コスト」を考えるとあまり得策じゃない。もっと優先度の高いことはいっぱいある。だから、関わる気はない。「とっとと死刑で結審しろ」と思うし。
では、積極的不支持に与するかと言えば、これには反対だ。なぜなら、「刑事被告人が弁護される権利」は守られるべきだし、「弁護士」は誠心誠意依頼人のために働いて欲しいと思うからだ。
件の事件は事実関係がはっきりしているからまだ良いが、世の中そうでない事件はいっぱいある。冤罪なんてのもある。自分がその対象となることだってありうる。
国家権力を信用してる人は、冤罪なんて信じられないかも知れないが、冤罪はそんなに遠いことではない。私の友人のように、「たまたま事件後現場近くを歩いていた」だけで殺人事件の容疑者とされた人だっている。彼の場合は取調べ中に真犯人がみつかったのでそれで済んだが、そうでなかったら「誘導された自白」で冤罪とゆーお決まりのコースになりそうだったらしい。「誘導された自白」ってのは何度もやられると、だんだんその気になって来るそうだ。
そこで起訴されてしまえば、立派な刑事被告人の出来上がりだ。殺人事件ともなると、それなりのシナリオにしたがってマスコミに発表され、御用メディアはそれを垂れ流す。となると、「極悪刑事被告人」にレベルアップしてしまう。で、2ちゃんあたりで「死刑死刑」と祭りになる… というのは想像に難くない。弁護人を叩く祭りなんかも起きてしまうだろう。
そんな時に「極悪刑事被告人」が頼るのは、そういった被告でも弁護してくれる、いわゆる「人権派」の弁護士しかいないわけだ。それは自分の身に覚えのない冤罪であっても同じだ。「事実をちゃんと説明すればわかってくれる」ほど、日本の警察や裁判所は甘くないし、弁護士も人の子なんで、結構面倒臭がりも多い。下手すりゃ仮に冤罪でも「とっとと罪認めた方が楽だよ」みたいなことを言う弁護士も少なくないらしい。
そんなわけで、「自分が刑事被告人になったら」という想像をすると、ああいった「叩き」に与するのは、未来の自分の首を締めていることになるかも知れない。そう思うと、あの「叩き」に参加している人達は、天真爛漫で無邪気な人達だなーと思う。
それにまぁ、「叩き」に積極的に参加しなくても、どうせ「死刑で結審」なんだろうし、仮に無期になったところで私が困るわけじゃない。むしろ、「もし自分が冤罪の対象になったら」とかの方が、よほど身近なリスクに思える。
くどいようだが、冤罪は遠いものではない。男なら満員電車に乗るだけで、いつでも冤罪が我身の出来事になるかも知れないのだ。
叩いてる奴等は「社会正義のため」とか言ってるけど、「正義」なんてのは常に相対的なものでしかないことは忘れてはならない。今回は被害者が「かわいそうな人」になっているから、みんな死刑死刑と言っているけれど、仮に被害者が「前科○犯の極悪人」だったらそう言うだろうか?基本的には、刑罰なんてのは「罪」に対して問うものであって、「被害者の人となり」で問うものではないよ。その時の「社会正義」ってどうなるのかね?
まー、そうは言っても私が弁護してもらう時に、あーゆー香ばしいことをして欲しいとは思わないけど、それはその時になってみないとわからない。「あーゆーデムパな弁護をされるくらいなら」とか思わないでもないが、「命あってのものだね」といも思う。