「日の丸」あるいは「技術」は虚しいか?

日本の、特に役人は「日の丸○○」が好きである。

「国旗」としての「日の丸」を嫌悪する人達であっても、「日の丸○○」が好きな人は少なくない(「○○」は「弁当」ではなく、たとえば「コンピュータ」とかだ)。どちらも一種の民族主義には違いないのだが、「日の丸○○」の方は反民族主義の対象として嫌悪されることはない。

その反面、技術的な見地から「日の丸○○」を嫌う人も少なくない。いわく、

  • 輸入した方が安いものを作る(創る)ことはない
  • グローバルスタンダードと外れるのは好ましくない
  • 補助金バラ撒き(あるいは天下り)の口実に過ぎない

といった理由からである。

確かに、平和な現代において、輸入すれば済むものを国産で作ることは、金銭的には馬鹿げている。また、開発にコストのかかるもの(たとえばロケットとか)は、その開発費の回収も容易ではない。それなら、完成品を輸入してしまった方が安いわけである。

また、「日の丸○○」のせいで日本独自のものを作ってしまった場合、いわゆるグローバルスタンダードから外れてしまう危険性がないではない。最近 の目立つ例で言えば、携帯電話の電波形式は役人が「国産技術」にこだわり過ぎた結果、DoCoMoはかなり苦労するハメになってしまった。また、開発者の絶対数が少ないがために、時代の流れに遅れてしまったものも少なくない。グローバルスタンダードから外れないものであっても、一種の「車輪の再発明」になってしまうことを嫌う人は少なくない。

そもそも、鳴り物入りで「日の丸○○」とブチ上げて成功した例が少ない。その結果、単なる補助金バラ撒きになり、それで甘い汁を吸った人達が同じことを期待して、次々と同様なプロジェクトをブチ上げ、またその成果は…という例が少なくないため、「日の丸」というブランド自体が不信のキーワードとなってしまっているということもある。

昨夜、kbt氏と会食していたのだが、その時にかつて私の言った「技術は虚しい」という話になった。

「技術は虚しい」というのはどういうことかと言えば、世の中のたいていの技術は「金」で解決がついてしまうということである。つまり、金さえあれば技術は買って来れるし、技術者は貸りて来れる。だから、いわゆる「自社技術」なんてものは、今はなくても必要になった時に金さえあればどうとでもなるという意味である。実際、そんなにたいした技術を持っていなかった会社であっても、IPOして資金が潤沢になった途端に技術者が集まり、技術的に(企業として)成長したという例は少なくない。まー、mixiのような例外もあるけど。

そんなわけで、モチベーションの極端に高い技術者と無理して「自社技術」を創ることよりも、「そこそこ」の状態で金を集めて、それで一気に…ということをしてしまった方が、結果的に安くつく。逆に我慢に我慢を重ねて築き上げた「自社技術」であっても、そうやって「買って来た技術」にあっと言う間に追い越されてしまうというわけだ。

このことは、「日の丸○○」の否定と同じ論理だ。つまり、「買って来れば済むものを作るコストよりも、買って来た方のコストが安い」という点で同じである。

とは言え、「技術は虚しい」という話には続きがある。

確かに「戦術」としての技術は買えば済む。しかし、「戦略」としての技術は、ビジネスの根幹になるので、なかなか買うことはできないということだ。

たとえば、JavaのコンパイラはSun純正のものよりもIBMのものの方が優れているらしい。だから「高性能Javaコンパイラ」が必要であれば、Sunは自社で作らなくともIBMから買って来ればいい。いや、買わなくてもJikesはオープンソースだ。

とは言え、SunはやはりJavacは自社開発している。それは「純正ブランドの維持」ということもあるだろうが、Sunにとっては自社の言語の処理系は自社で作るということに意味があるのだろう。「戦術」としては「IBMから買って来ればいい」のであるが、「戦略」としては「やっぱり自社開発」だということだ。これが戦略として正しいかどうかは別にして、Sunにとっては「戦略的に意味のある技術」ということなのだろう。

ということとは別に、そういった「戦術」に近い技術であっても、それが「車輪の再発明」ということであっても、そういった技術を開発することを経験することによって、「技術の心」を理解する機会が与えられるということもある。これはたとえば「ある規格にそった製品」を作ったことのある人ならわかるだろう。そして、そういったものがわかっているのとわかっていないのとでは、その周辺の技術の見通しがまるで違うということもわかると思う。

だから「地力のある技術」を得るためには、買って来るだけではダメで、無駄なことに見えても実際にやってみないとダメなのである。だから「技術は虚しい」という言葉は、そういった「土壌」があった上で言えることなのだ。

サムソンがいかに売り上げベースで世界一になったにしても、また、「韓国IT」が世界一のレベルになったとしても、日本の技術者は腹の中では彼等を冷笑している。それはいかに表面的に優れた結果が出ていようと、それらの「技術」の多くは「買って来たもの」「パクって来たもの」でしかないということがわかっているからである。「自社」や「自国」で開発経験のないものは、結局は表面的なものに過ぎないのだ。「土壌」のない「切り花」なのである。

確かに日本も「ものまね技術」とよく耶愉される。しかし、日本の場合は同じ「パクり」であっても、「結果」をパクっただけであって、「開発」の部分は自分たちでやって来た。それが「日の丸○○」だったわけである。だから、今日、韓国を「技術三流国」と冷笑できるのは、死屍累々だったとは言え、「日の丸○○」をやって来た結果だとも言える。

そういったことを考えると、数々ブチ上げられる「日の丸○○」の類も、全てが無駄と言えるものではないはずである。