若さの証し

小飼さんのblogより。

プライドの高さ=井戸の高さ

その程度のものを「プライド」と呼べるのが若さの特権か。

むしろ、その程度のものが「プライド」と呼べるのは、若さの証しでしょう。

多分、元の「女の子」であっても、「先輩」に対してはそんなことはないでしょう。多分、わからないことは素直に聞けるはず。どんな世間知らずであっても、周囲が自分よりも偉い人達ばかりだったら、へりくだるしかないのはすぐわかるだろう。わからないことがあれば、素直に教えを乞うしかない。

若いうちはそれで済む。仕事しているうちに天狗になることがあっても、たいてい「真に出来る人」の前に出れば、少々の「プライド」は意味を持たないことがわかる。「先輩」にはリスペクトしておくしかない。

次にそういった「プライド」が維持できるのは、時代が変化して行き、年齢と積んだ経験が一致しなくなった頃だ。相手との年齢差よりも新しい技術であれば、精進次第では自分の方が「偉く」なれる。

しかし、

残酷なのはその先

だ。ある程度歳を取ると、今までの戦略の延長上で勝負することが難しくなる。自分よりも若い奴等の方が「偉く」なってしまうのだ。

人の成長には、経験の積み方を工夫だけで成長することと、若くないとやれないこととがある。その「若さ」を味方につけて成長している盛りの奴等に勝てなくなる時が来るのだ。

自分の経験で、年長者が自分よりも「偉い」というのは、非常に気楽である。いろいろ悔しい局面があっても「今に見てろ」と思えばいい。能力差を年齢差に環元出来るような違いであれば、「今は」素直にリスペクトしておけばいい。新たな戦略戦術を考える必要もそんなにないかも知れない。そこでリスペクトだけしておいても、「プライド」を崩されることもない。

ところが、自分よりも若い奴等に対して、自分よりも上であることを認識するようになると、自分を冷静に分析出来れば出来るだけ、つまり「プライド」にふさわしい能力を持っていればいるだけ、

今まで何して来たんだ > 俺

と思ってしまう。それが「若くて偉い奴」が若さに任せてガリガリやって来た結果であろうと、うまい戦略を持っていた結果であろうと、「負け」は負けだし、「プライド」は破壊される。そして、負けを認めざるをえなくなる。

冷静に考えれば、

世の中に自分より優秀な奴はいくらでもいる

ということは当然のこととしてわかる。理屈ではそれがわかっていても、現実にそれを見せられると、自分の「無能さ」が証拠と共に思い知らされるのだ。

そこからどうするかはまたいつか書くことにするけど、何にせよ

自分より優れた年長者にはリスペクトしときゃいいが、
自分より優れた若年者にはそうは行かない

ということ。「井戸」なんてものがなくても、自分の周囲(同世代)の人達に対して「プライド」ががどうこうなんて言えるのは、若いうちだけだ。ちょっと歳食えば、

リスペクトしつつ勝負に勝つ

という難しいことを考えなきゃいけなくなる。そして、それにうまく適応して行かないと、「ロートル化」に抗うことが出来なくなってしまう。

それは初歩的なことをわざわざ他人に教えられるのが嫌だから。嫌というか単純になれていない。もっと端的に言えばプライドが高いのです。

なんてことが「プライド」なんて言ってられるのは、そういった「敗北経験」がないという点で、「若い」ということ。その「若さ」を味方につけていられるのは今のうちだ。

今、ネットで活躍している人達は、ほとんどが私よりも若い。「若いものに負けちゃいられない」という言葉を「老人の戯言」以上の意味を持たせるための精進が、当座の私のやるべきことか。

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