老獪な中学2年生

私のようなものが「あるふぁぶろがー」の代表たる小飼さんを云々する資格はないが、小飼さんの「中学2年生」は実にいいポジションだと思う。

それも、ただの「中学2年生」じゃない。積むべき経験を積んで、むしろ他人よりも波瀾万丈な経験を積んで、その上でなお「中学2年生」であるというところが素晴らしい。

経験ってのは良い面と悪い面があって、悪い面は特に意識しなくても勝手に身についてしまう。良い面はうまく積んで行かないと身になってくれないのに、悪い面は動脈硬化のコレステロールのごとく、勝手にくっついてしまう。

痛い目にあえばそれを避けるのは本能だし、避けるために近付こうともしなくなる。それ自体は無為なものだけど、たいていそれは悪い面となって、いわゆる「守りの姿勢」になってしまう。いや、守ることそれ自体もやはり無為なものだけど、たいていは悪い方の守り方になる。

それに限らず、「大人の良識」の何割かは、そういった悪い方の経験の蓄積だ。なぜなら、たいていの人はちゃんと「大人」になってしまうわけで、それは意識して良い経験を積み上げなきゃいけないものであるなら、もっと「大人」になり切れない人にあふれていなきゃいけない。「えー? 今時大人もガキじゃん」っていう見方もあるだろうが、それでもよく見れば「大人の世界」は大人の世界で、それはどっちかと言えば「大人の悪い性質」から来るものだ。

だから、いろんな社会経験を積んでしまえば、「中学2年生的なもの」からは嫌でも離れて行くものだ。

それは「秩序」という観点から言えば、悪いことではない。しかし、じゃあ「秩序」そのものが常に正しいことかと言えばそうじゃない。

例えば、何らかの「新規参入」は、それまでのその社会での「秩序」を乱す。それは正しくないことかと言えば、「既得権を持った大人」にとっては正しくなくても、「未来の受益者」から見れば正しいことだ。つまり、「秩序」なんてものが正しいかどうかは、それぞれのポジションによる相対的なものに過ぎない。

いわゆる「常識」を知らないで踏み潰すことは誰でも出来る。常識を知らないで否定したり踏み潰したくなるというのは、「真性中学2年生」がやることだ。本当の「中学2年生」なら、常識そのものがわからないで、あるいはその常識の意味がわからないで、否定したり踏み潰したりする。まー、最近では「常識のない大人」も少なくないから、大人でもそういったことをやったりするが、それにしてもそれは「真性中学2年生的行為」であることに変わりはない。

しかし、「大人」になれば「常識」が身につき、否定したり踏み潰したりすることは困難になる。つーか、普通は出来ない。常識の持っている意味がわからなくとも、その常識を破るとどんな「害」があるか経験でわかってしまっているから、否定したり踏み潰したりしようとしなくなる。まぁ「社会秩序」というのはそういったもので守られるわけで、それがあるから「既得権を持った大人」は安閑としていられる。

ところが、小飼さんのような「老獪な中学2年生」はタチが悪い。

そういった「大人の常識」を知りながら、あえてそれを中2的に否定し踏み潰す。「常識」の効果を理解しつつ、その暗黒面を否定するがために、「中学2年生」と化す。「常識ある大人」が、安閑とした秩序を守りたいところに、「いや、その常識はおかしい」と切り込むわけだ。当の「大人」も、実は薄々その常識はおかしいと感じていながら、それを破るリスクを恐れて行動しないところを、バリバリとブルドーザのように踏み込んで行く。そして、破壊した後にあのかわいい笑顔で「へへへー」とやるわけだ。

まったくもって、狡くも賢い、

老ねた中学2年生

である。

とは言え、誰しも自分が「新参者」である自覚があるなら、それは同時に「秩序の破壊者」であることも自覚すべきだ。そういった意味では、「新参者」は「中学2年生」の視点を持つべきであると共に、「悪い大人」にやっつけられないためには、老獪でなくてはならない。常識を持ちつつ、それを破壊しなければ、「新参者」は立つ場所すらないのだ。

まぁそれがわかっていながらも難しいのが「大人」であり、それが出来てしまう小飼さんは偉大なわけだが。

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