宇都宮の餃子

天気が良いので、車を出して、ついかっとなって宇都宮まで出掛けて餃子を食って帰って来た。着いた時はかなり日も傾いていたので、「餃子の像」はどこにあるかわからなかった。「健太」はあったけど。

健太

5店ほど回って食ってみた。普通のところもあれば、「これは!」と思うところもあり、事前調査なしで出掛けても結構楽しめた。まー、餃子はそれなりに腹にたまるので、あっと言う間に満腹になったんだけど。お気に入りは「餃天堂」だ。

餃天堂

有名店の「みんみん」はすごい行列だったので諦める。駅の中にある店はどれがどれだかわからないので、1店だけにした。宇都宮にいくつ餃子屋があるか知らないが、当然ながら全店征覇なんて、

ムリ

だ。

じゃあ、全店征覇を目指して行くかと言えば、そこまでのモチベーションもない。順番にみんな食って行けばいいじゃないかという気がするのだが、そんなに近所でもない(高速飛ばしても1時間じゃ着かない)し、全店征覇して何か良いことがあるかと言えばそれもない。

しょせん餃子

なんだし。だから、1度行けばたくさんだ。その1度で何店回れるかが、要するに「勝負どころ」なわけ。

これは多分、宇都宮の餃子を食いに行った人の大多数が同じことを思うだろう。確かにどの餃子もおいしいとは思うのだけど、何度も食いに行くものじゃない。たくさんある餃子屋に関心を示しつつ、食うのは結局いくつかだ。あとは諦めるしかない。

人は良いものを選択した喜びの3倍、諦めた他のものを悔いるらしい。「3倍」については果して本当にそうだろうかとは思うが、何かを「迷いつつ選んだ」経験のある人なら、ニュアンス的にはわかると思う。一番良いものを選んだはずなのに、諦めた他のものが気になってしょうがなかったり、似たような選択肢がたくさんあると結局絞り切れなかったり。それは普通の心理らしい。だから、選択したものが際立って良いものでない限り、諦めたことが辛くなる。そして、それが嫌になって、あまりそのことに触れなくなってしまうらしい。

「宇都宮の餃子」はちょうどそうで、「いいものがいっぱいある」のも確かだし「しょせん餃子」というのも確かだし、「卓越して素晴しい」というものはあまりない(というか、それを知る術すらない)。となれば、1度行けば「もうたくさん」な気分になってしまい、また行こうとは思わない。「諦めて悔しかった」という思いの方が大になってしまうからだ。

同様の「観光資源」はたくさんある。いわゆる「名物もの」ってのはたいていそうだ。だから、「酸っぱいブドウ」と同じニュアンスとして「名物にうまいものなし」と言われるのだと言えなくもない。「名物にうまいものなし」とか言いながら、試食の時には「おいしい」とか思ってたりするのだけど、結局最後には「名物にうまいものなし」という感想になるというのは、そういったことも原因にある(実際にまずいことも少なくないけど)。

「名物」を観光資源として使うには、この辺のことを考えないといけない。「二度は行かない」程度ならまだしも、「どうせ」という枕詞で語られるような「名物」になってしまうと、有害ですらあるのだ。

解決方法はないかと言えば、1つだけ思いついた。とゆーか思い出した。それを書いてしまうのは、「半可通のアドバイス」になりかねないから書かないけれど、少なくとも成功している観光地がある方法だ。まぁそれに限らずもっと頭のいい人ならいろいろ思いつくだろう。

ただ、「観光客」としては、

特に文句はないしおいしかったけど、
特に理由が出来ない限り、多分二度は行かないよ

と思ったというのが「事実」だということ。「もう来ねーよ」と思わなくても、二度と行かないということはあるのだ。