真理は説えた人の数だけある

源流探し(1)のことのメールでしばらくやりとりをしたら、捨てせりふに

迷った時は、真実を語れ。
(マーク・トゥエイン 米国の小説家)

とか書かれてしまった。それへの私の返事は表題の「真理は説えた人の数だけある」だ。

別に彼の「真理」が間違っているというつもりはない。多分それは正しい。「多分」と言うのは、私の知らないことが含まれているからで、その人を信用して「正しい」と思うことにしているということ。とは言え、それは彼にとっての真理であるけれど、私にとっての真理とは違う。要するに説えた人の数だけあるということ。

じゃあどっちかが嘘かと言えば、多分それも違う。それぞれにとっては、それぞれの真理があって、それは多分真理だろう。じゃあ、一見矛盾するようなことがあるのはなぜかと言えば、それは「視点が違う」からだ。

私は私の視点で見ているし、私の見聞した範囲で物事を考える。それは他の人も同様のはずだ。それぞれにはそれぞれの視点がある。また、それぞれにはそれぞれの立ち位置もある。そうすれば見えるものは違うのだ。

茶筒のようなものがあったとして、横から見れば方形だし、上から見れば円形だ。上から見た人は「丸い」と言い、横から見た人は「四角だ」と言う。まるっきり矛盾していることではあるが、どちらも間違いを言っているわけではない。両方正しいのだ。片方の主張を「間違いだ」として排除すれば、本質に迫ることは困難になる。だから、一見矛盾するようなことでも、双方が「真理」として語っているならば、それは両方正しいだろうし、そうでなければ本質がわからない。

実は「茶筒」は三次元的に見れば「円柱」であるが、二次元的に見れば方形であったり円形であったりするってだけだ。その両方の側面を知ってこそ、本当の形に迫ることが出来るのだ。

真理は説えた人の数だけある。そして、それが真理として語られる限り、全ては真理なのだ。その全てを肯定することで、物事の本質が見える。

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