SNSをやめてみた

ちょっと前に、FacebookとTwitterの更新を停止した。

更新を停止しただけでTwitterは時々見ているが、Facebookはメッセージへの対応以外では見ることもしない。とは言えアカウントを消してしまう程の気持ちでもない。何か理由があればまた戻れるようにはしてある。

特別に深い理由があるわけではないが、強いて言えば「いろいろ虚しい世界だなぁ」という気持ちが大きくなってしまったというのはあるかも知れない。

Facebookは元々それ程アクティブでもなく、単に「日記(!=blog)」くらいのことと「主の祈り」をしていただけで主には他人の書いたものを読むことの方が多かった。リアル知人が多くつながっていることあって、その辺の人達の動静を知るためのものでしかなかった。まぁご多分に漏れず「リアル知人」の多さはしんどさに直結するものではあるのだけど、「そーゆーもの」として使ってる分には特に不自由もない。

ただ、近頃いろんなSNSが「政治的」になってしまっていてFacebookもその例に漏れず、「あの人、こーゆー傾向なのか」「ネトウヨだったんか、めんどくさー」とか思うこと、あるいは同世代業界人の「論評」を見て「要するに若者に嫉妬してるんだね」としか結論出来ないことを言っているのと見て辟易することとかあって、「フィードを止める」選択をしている人が増えてしまった。それでもなお「はぁ〜」としか言いようがないのが時々流れて来るのに疲れてしまった。

Twitterは割とアクティブでフォロワも5000を超えるまでになっていた。特にテーマを決めたことを言ってるわけでもない、

単なる「個人」にしては上々

だろう。フォローはだいたい560くらいまでに抑えているのでそれほど流速が速いタイムラインではないのだが、これも「知り合い」を多くフォローしてしまった結果、結構残念な思いをすることが増えてしまった。また、「retweet」なんてものがあるものだから、フォロー外から不愉快なツイートが流れて来たりして、残念な思いをすることが多い。

また、「知り合い」の中には「活動的な人」が多いのだが、そういった人達は「クソリプ晒し上げの上反論」をしばしばやっていて、それを見るのにも疲れた。見ていて疲れるのではあるが、そういった「戦い」を可視化することは大事だと思うので、強いて止める気もしないし、また彼等の「元気な姿」でもあるので、そういった行為をやっていることはむしろ好ましくさえ思う。でも、やっぱり見ていて疲れることに違いはない。

見ていて疲れると言えば、いくらフォローを絞っているとは言えタイムラインにはいろんな話が流れて来る。近頃増えたのは、

理不尽晒し

である。

やれ旦那に理不尽な扱いされた、会社で理不尽な目にあった、役所で理不尽な思いをした… そーゆーのが毎日大量に流れて来る。

私はこの手のことが苦手である。と言うのも、そーゆー理不尽につい感情移入してしまうのだ。自分が理不尽な目にあったことが多いからか、単にそーゆーのが気になるのか、その辺の事情は自分でもよくわからないのだが、見ているととても辛いのだ。

そしてついのスレッドを見てしまうと、そこには

良識厨

としか言いようがない、「一方の言い分だけでは」とか言いたがる奴が必ずいる。これもまた「確かにそうだよな」と思うがゆえに、イラっとする。そうなんだ、それは一方的な主張に過ぎないじゃないか、もう一方から見たら合理的で公平な扱いをしたに過ぎないかも知れないじゃないか… と、自分の中の「良識の虫」がさわぎ始める。

いずれにしろ、そういったことで感情が揺すぶられる。それによって精神は疲弊する。おそらく自分が会うことすらないであろう人のそういった「日常」のせいで、なぜかこちらの精神が疲れるのだ。

しかも、そういった「理不尽」を目にしても、自分で何か出来るわけでもない。自分の感情としては、「単なる傍観者」になるのは良くないという思いがあるのだが、それであるがゆえに大量に流れて来る理不尽の前では、そういった「ちっぽけな正義感」なぞ微塵の役にも立たない。あまりに大量であるがゆえに、「単なる傍観者」になるしかなく、それでますます無力感を感じてしまい、そういった自分がまた嫌になってしまうし、そういった「世界」が嫌になってしまう。

ネットの向こうに「生身の人間」なぞいない

とか思ってみても、無駄なのである。

まぁそんなことがあって、SNSを見ててとても疲れてしまったのだ。かつて言われていた「SNS疲れ」は自分と他者の関係性の話だったのだが、Twitterに至ってはほとんど関係性なぞない、

単なるコンテンツ程度

のものに疲れてしまう。実に馬鹿らしい話である。

というのとは別に、「タイムライン」というものはつい見入ってしまうものである。ちょっとづつ変化して行くものに、どうしても目も心も奪われる。CNCが木材を削っているのを眺めていると、いくらでも時間が消えて行く。それと同じだ。それで大量の時間を浪費していることに気がついてしまった。

この時間があれば、もっと本も読めるしプログラムも書ける

ことに気がついてしまったのだ。まぁ、実際にSNSから離れたからと言って、そうそうそういった主体的な活動が出来るわけではないが、少なくとも自分の時間がそういった「どうでもいい」ことに消費されて時間がなくなってしまうことに悩む必要はなくなるのだ。

勝手に「義務」と思っていたものがなくなって、時間をどう使うかは自分の手に戻って来る。「どうせ帰宅したら休息の時間だ」と割り切って、YouTubeを見てしまってもいい。だらだらWikipediaを見ていてもいい。

義務もなければ報酬発生もない、それでいてたいした喜びもないSNSに、下手すれば炎上を覚悟しながら時間と精神を浪費する必要がなくなった。とても気楽である。

これを

SNS断ち

とかしてしまうと、逆にいろいろ気になってしまって結局戻ることになってしまうと思うのだが、アカウントはそのままだし何ならログインもしっぱなしである。Facebookは全く見ないが、Twitterは朝起きた時と、夜最後のポケストップを過ぎてから部屋に戻るまでの間は見ている。RTはしないがfavはしたりする。

ただし、書き込むことはしない。Dに返信はするのだが、表には書き込まない。書き込むと

客観的にフォローを見る

ことが出来なくなってしまって、結局残念な思いをしてしまう。タイムラインを完全に「コンテンツ」として消費するのでないと、「他人事」として見ることが出来なくなってしまう。

そんなわけで、

断ったわけではないが参加をやめる

ことに至ったのだ。

まぁ別に断ったわけではないから、何か気が向けば戻るかも知れないのであるが、「なければないで快適」だってことに気がついてしまった。

最後にまとめておこう。私が主体的な行動としての「SNSに参加」するのを放棄した。理由は、

  • SNS上の政治的イデオロギー的な対立構造に疲れた
  • 世の中の「理不尽」に精神を揺さぶられるのに疲れた
  • どうでもいいことに時間を浪費されるのが馬鹿らしくなった

からであり、どうやったかと言えば、

  • アカウントは残してある
  • たまに見ることもある
  • 1対1の会話以外は書き込まない

ようにした。結果として

  • 対立構造を見ないで済む
  • いろんなことが「他人事」になり、精神が無駄に揺さぶられずに済む
  • 主体的に時間を消費出来るようになった

のである。今のところ、困ったことは発生していない。

私のDはオープンになっている。何か話したいなと思ったら、Dしてくれればいい。まぁ、いきなり罵倒して来るような奴はそっと報告するまでだけど、友好的な世間話をするのは歓迎するところである。

PS.

同じような決断をした人の話が出ていた。

さようなら、Twitter

ここには明に書かなかったことが言語化されている。同じようなことを思っていて書けなかったのであるが、こういった気持ちも無論ある。