石原慎太郎のアレ

散歩をしていると、石原慎太郎の特攻隊映画のポスターを見掛ける。

私は戦争映画は嫌いじゃない。どっちかと言えば好きである。それがあからさまな戦争讃美のものであってもだ。しかし、あの映画だけは見る気が起きない。なぜなら、

  • また特攻隊? もう飽きたよ
  • 第二次大戦の日本映画って、結局バッドエンドじゃん
  • また負け戦したいわけ?

ということからだ。

御存知のように、「特攻隊映画」は既に沢山ある。だから、興行的には「もう飽きた」と言っていい。そもそも内容が「愛する人を守るためにという自己解決のまま、花と散る青年」というパターンばかりだ。それ以上でもそれ以下でもない。どんなにドラマとして美化しても、このパターンから抜けていない。

前にも書いたが、「愛する人を守る」のであれば、近くにいてやるのが一番いい。直接、100%の責任を持ってその人を守る方法はそれしかない。「愛する人のために戦争で戦う」というのは、「愛する人のために年金を納める」というのと、同じ程度の愛の通じ方でしかない。それでもいいなら、それでもいいが、年金破綻したら無駄金だぞ。つまり「愛する人のために国に尽す」というのは、そういったリスクがあるのだ。

また、第二次大戦では日本は負けてしまっている。ということは、どんな展開になろうと、結局バッドエンドにしかならない。勝てはハッピーエンドもあっただろうが、どう転んでもそうではない。勝てなかった戦争での戦死は、

単なる犬死に

に過ぎない。「いや、あの人達は平和の礎として」という説明もあるが、それはつまり「あの戦争で負けたことは正しい」という意味であって、勝ちを信じて戦死したということが犬死にだと言っているに過ぎない。犬死には虚しい。だからこそ「追悼」の意味がある。

ところが、あの戦争で死んだのは、特攻隊だけじゃない。もっと地味なところ、たとえば兵站の人達も戦死したし、兵器開発の技術者も戦死してるし、それどころか輸送船が沈没して海の藻屑となった人達もいる。これらだって立派な「戦死(つまり犬死に)」だから、「追悼」される権利がある。ところが、「特攻隊映画」は多いが、「兵站映画」とか「軍事技術者映画」とか、「虚しく海の藻屑になった兵士映画」といったものはない。「戦友を自殺させるための特攻兵器を開発する技術者の苦悩」とか、テーマとして悪くないと思うし、平賀譲や糸川英夫の話なんて面白いと思うのだが。

あの戦争で負けた理由はいろいろあるだろうが、技術者として見ると「兵站の甘さ」「資源見積りの甘さ」と、そういうことにしてしまった「指導者の馬鹿さ」だと思う。実際、当時の日本の技術はそれなりに凄かったし、序戦はそれなりに強かったし、士気も高かった。ところが続けているうちに、兵站の甘さや資源不足、あるいはその運用下手という問題が出て来て負けたのだ。

そういった意味では、「次の戦争で勝ちたい」と思うなら、こういった問題点を何とかするのが「好戦的現役政治家」の勤めだろう。勝てない戦争をやる政治家は、単なる馬鹿だ。勝ってこそ戦争は意味がある。負け戦を「平和の礎」みたいな言い訳をするくらいだったら、もう二度と戦争なんぞしないと誓え。その方が平和なんだから。

だから、「好戦的現役政治家」の代表である石原慎太郎が、ああいった映画を作るということは、「俺はまた負け戦をやりたい」ということを表明していることになる。彼が「追悼」と言うのであれば、特攻隊のようにいろんな人がスポットライトを当てたような「何を今さらな特攻隊」ではなく、「兵站」とか「技術者」とかを「追悼」するべきだ。それが「政治家」としての立場を持ちながら、戦争映画をプロデュースする意味だろう。

「戦場に行く」ためには、

  • 後顧の憂いがない
    国家が保証してくれる
  • 犬死ににならない
    勝つための戦
  • 仮に犬死にでも覚えてもらえる
    「追悼」してもらえる

ということが必要だ。今まで「特攻隊」はさんざん「追悼」してもらっているが、「兵站」や「技術者」や「輸送船沈没」なんてのは、あーゆースポットライトの当たった「追悼」はしてもらってないのだ。となると「特攻隊かこいー」「裏方ださー」ということになってしまって、完全に第二次大戦の負けパターンの繰り返しになってしまう。

逆に言えば、「好戦的政治家石原慎太郎」があの程度の認識だということは、彼の「好戦的立場」というのは、単なるウケのためであって、本当に戦争をする気はないのかも知れない。それなら、「特攻隊讃美」も「いい平和ボケ」と言えなくもない。