文句があっても対案なぞ出さなくてもいい

よく、「文句があったら対案を出せ」と言う人がいる。

gdgdと文句を言う奴に対して、「文句だけ言う奴は馬鹿」と印象づけるには、非常に便利なフレーズでよく使われる。まぁ、gdgd文句を言う奴にはそう言いたい気持ちもわかる。でも、

素人の対案なぞ聞きたくもない

というのも事実だ。

世の中、反対ばかりしてる奴は大勢いて、結構ウザいと感じることもある。「原発と電力供給」あたりでよく見掛けるけど、別にそこに限らない。

ところが、そういった話になると、すぐに「文句があったら対案出せ」と言って黙らせようとする奴がいる。まぁ言いたいことはわかるし、自分でもそう思うことは少なくない。対案出してくれれば話もしやすいがなーと思ったりもする。とは言え、ゆっくり考えるとこの反論はおかしい。

なぜなら、たいてい「文句」を言う人達と言うのは、

素人

なのだ。素人が「対案」を出したところで、しょせん素人考えだ。たまーーーに素人の視点が役に立つことはあるけれど、たいていは「そんなこととっくに考えた」とゆー類のことだったり、「既にやって死屍累々」だったりする。つまりまぁ、たいして役に立たないわけだ。そういった「たいして役に立たない」意見に耳を貸すのはムダであるし、あげくに「俺は対案出したんだ。なんで聞かない」とか逆ギレされても困る。

「文句」を言われた時、改善を考えるのは素人の仕事ではない。少なくとも、第三者の仕事ではない。そこで実際に何かをやっている人達が、その経験や知見でやるべきことだ。考えた結果、アクションをすることが出来る人でなければ、考えても意味がない。

ネットにいる人達は、「議論を起こすことに意味がある」と考えているフシがあるし、実際そんなことも少なくない。と言うか、議論すること自体は悪くないし、騒ぎ立てないと通じないこともある。議論することそれ自体が悪いわけではない。いや、議論はされるべきだろう。

ところが、その「議論」が面倒臭い人達、。議論の元になる「文句」が気に食わない人達は、安易に「文句があったら対案出せ」と言って黙らせようとする。でも、たいていの場合、この言葉は「対案を出して下さい。お願いします」という意味で言われる言葉ではない。むしろ「対案が出せない奴は文句言うなよ」という意味で言われる言葉だ。つまり、「議論を起こす」ための言葉ではなくて、「思考停止」させるための言葉だ。

高々素人の「対案」なのだ。それにどんな意味があると言うのだ。それよりも、「文句」という形で課題を与えられて、それについて議論する方がずっと前向きだ。下手な「対案」を提示されるよりも、「文句の渦」でも作った方が、ずっと物事は進歩する。

そう考えれば、「文句があるなら対案出せ」と言ってる奴が、どれだけクソッタレかわかるだろう。この言葉を出す奴はクソッタレだ。そいつの言うことは以後スルーで問題ない。