JLUGの理事長なんて立場があくまでも名目の上のものであっても、対外的には意味があることらしく、結構献本が届く。もちろんそれらの献本はタダで来るわけではなく、それなりにお手伝いをした時に来るのが大半である。まぁ手伝いをした時によこすのは良い方で、出版社によってはこっちから催促しないと献本をよこさないところもあれば、催促してもよこさないところがある。
この献本であるが、やはり
タイミング
は重要である。自分の関係した本であるなら、当然その出来に関心があるわけで、献本の来るのが遅ければ、自分で買ってしまうものである。そうなってから送って来ても、
単なる紙クズ
同然である。特に自分が原稿を書いた本が、献本よりも先に本屋で発見するとなると(実は改訂版「Linuxを256倍使うための本」はそうだったのだ)、もうそれは
勘弁してくれ
という気になってしまう。著者校もロクにしてない本でそれをやられると、本当にどうしたものかと困ってしまう。とにかく自分のタッチした本であるなら、すみやかに目を通したいものである。そうなると、出版社はすみやかに本を届けて欲しい。これはセコさで言っているのではなく、
自分の発言への責任
からである。また、出版社も、少しでも絡ませたのであれば、そのことへの
礼儀
として献本して欲しい。仮に直接原稿を書かなかったにしても、多少なりとも手をわずらわせたわけであるし、出版社にとっての本は安いものであるからだ。
などということを書くには当然それなりの理由があるわけだが、それは日経バイト10月号の解説記事のことである。この記事の記者はメールであれこれ問い合わせて来たので、一応わかる範囲で返事をしておいた。その後音沙汰がないので、忘れていたのであるが、MLで「Linux/FreeBSDの実体」という記事があるという話だったので、「もしや」と思い調べると、やはり私に問い合わせた記者がそのことをネタに記事を書いているものであった。もちろん私はこの記事を書いたわけではないので、原稿料の類をもらうことが出来る立場にはない。しかし、メールとは言え取材協力をしたのである。ま、記事の中身は
論外
な内容であるのではあるが、少なくとも協力したのであるから、あいさつなりするべきであろう。また、献本くらいするべきだろう。ところが、この馬鹿記者は「献本くらいしてもバチは当たらんだろう」というメールを送ってやっとのこと、
「さっそく手配します」
と返事をよこして来た。だいたい、そんなものは本として出る前から手配しておくのが当然であろう。
もう一つ馬鹿な例が、秀和システムの「無敵のLinux広大無辺インターネット」という本である。こいつの内容も
話にならない
くらいくだらない本であるが(そんな本が苦労して書いた「Linuxを256倍使うための本」よりも高いのもシクシクである)、やはり内容的に若干絡んでいる(と言ってもJLUGのホームページが出ているだけである)が、やはり献本がもらえずにいた。まぁ
シャレ
ということもあって自費で一冊買って、MLにもそれを元に書評を書いたりしたのであるが、何を思ったのか随分と後になってから献本が送られて来た。こっちは既に持っているのだし、内容もクズでしかないのでそんなものもらっても、
紙クズよりもタチが悪い
ものでしかない。一体何を考えているのやらわけがわからぬ。
さらに腹の立つ例を挙げると、「Software Design」という雑誌である。これも前に頼まれて特集記事を書いたのであるが、件の記事が掲載される前後はちゃんと献本してくれたのであるが、掲載後はいきなり届けるのをやめてしまった。まぁそれは仕方ないわいとは思うのであるが、読者欄に出る否定的な意見に何のフォローもしてない。それぞれは小さな問題ではあるが、積み重なると
もう書いてやらないぞ
という気になるし、考えようによっては、
使い捨てにされた
という不快感も感じる。あるいは、
都合の良い時だけいい顔しやがって
とかも思ってしまう。まぁどっちにしても、この辺のやり方を間違えると、いいようには思われないのは事実でである。