「藁の一本」の罪は問えないものか

フジテレビのことで、こーゆーことがあったらしい。

【ネット怖い】抗議デモを批判したフジテレビ社員に対する鬼女の追い込みが尋常じゃないと話題に : はちま起稿

まぁいつも通りの鬼女様で、水戸黄門並の予定調和で、「今日も日本は平常運転」とか思う事件。

とは言え、そろそろこの手の行為を野放しにして良いのかと感じる。

これは、別に「鬼女様」に限った話ではないのだが。

たとえば、「いじめ」の事件が起きる。いじめられた側は(もし生きていれば)、「日常的にいじめにあっていた」と言うだろう。でも、いじめた側とされた方にしてみれば、

一度くらいは何かやったかも知れない

という程度の認識でしかないことが少なくない。「主犯」はそれこそ日常的にやっていたのかも知れないが、加担した「その他大勢」は「一度くらいは」でしかない。でも、半年間くらい100人が「一度くらい」をやっていれば、やられている方にしてみれば、「ほぼ毎日」だ。とは言え、「一度くらい」で罪に問えるかと言われれば、なかなか難しい。やられてる方はたまらないが。

これはまぁ昔から「らくだの背骨を折るのは最後の藁だ」と言われている問題で、「藁」なんてゆー軽いものを載せていっても、最後の1本の藁でらくだは潰れてしまう。載せられた方はたまらんが、載せた方はどうってことないと思っているし、載せられた方だって最初は平気だ。

例の「鬼女様」のことも、個々の鬼女は「ちょっと」いろんなことをやったに過ぎないだろう。それが下手したら人一人の人生を潰すようなことであっても、それぞれがやったことは「藁を載せた」に過ぎない。

「弱者」が連帯して「強者」に当たる。これは全く正しいことだ。前にも書いたが、「同和」「在日」が強いのは、彼等は自分達が「弱者」だという自覚があるから連帯をして強くなっているからだ。反対に「それ以外の弱者」がいつまでも「弱者」なのは、「弱者」同士で足を引っぱりあうからだ。「弱者」は連帯して強者に対さなければならない。そういった意味では、「鬼女様」が大企業相手に不買運動するとか、全く正しい行動だと言える。仮にそれが間違っていた方向であっても、いずれ正されるだろう。

とは言え、「いじめ」でも件のことでも、対象は「ことさら強いわけでもない個人」だ。これらを

「ちょっと」藁を載せただけです

と言って良いものなんだろうか。そこに存在している「集団の悪意の総体」の罪は問えないものだろうか。

「藁を載せてらくだの背を折る」のは、個々の「藁を載せる」のは独立した行為の結果に過ぎなくて「らくだの背を折る」ことを目的として行ったものではない。しかし、「いじめ」に参加した時の「一度くらいは」は、「いじめ」の「分担」だと言えなくもないし、「分担」だということであれば「共同正犯」であると言える。鬼女様の

ネットリンチ

も「分担」してやった「共同正犯」ということにはならないだろうか。スレで「そうだそうだ」「やれやれー」的にやっていれば、参加者全員「共謀共同正犯」とか「教唆犯」ということになって、「ちょっとしただけです」とは言えないように思うのだが。

まぁ、「不快だからやめろ」は、不用意にやると自分にはね返って来るのは、前エントリに書いたとおりではあるのだけど。