ケータイ小説的世界観って

テレビで映画の「恋空」をやっていたらしくてバズっていた。

そこで、映画の方の批評エントリのリンクを教えてもらった。

破壊屋_2007年の映画の感想_恋空

小説の方がかなりアレだったので、映画ってもうちょっとマシかと思ってたけど、かなり酷いものだったのね。

同じ人のエントリで、他のケータイ小説の批評も見る

Deep Love アユの物語

両方を見て感じることは、要するにこの手のものの世界観というのは、

悪い意味でのゆとり世代の世界観

そのものだなと理解した。

とは言うものの、「世界観」について本質的には我々の世代、つまり「ゆとり世代の親の世代」であっても、実は今のゆとり世代の年齢の頃には大差なかったように思う。同世代の中でだけ通用する価値観で、同世代だけに共感されるような、そんな価値観だった。だから、我々が「近頃の若いモンは」的なことを言うのは、天に唾するような行為だ。「悪い意味でのゆとり世代の世界観」なんてのは、「10代の生活圏内における価値観」であるに過ぎない。尾崎豊的世界観つーか、我々のリアルタイムで言えば甲斐バンドとかそんな感じ。そんな年代の頃にはそんなのがいいものさ。

だから、そんなことにいろいろ目くじら立てるのは、逆に中二っぽい。若者には若者の世界があり、「昔の若者」には「その当時の若者の世界」があるものだ。ケータイ小説でレイプだの妊振だのDQNだのが出て来ても、同世代体験の一部に過ぎのだろう。実態は知らんけど、知らんのだからこそ「そんなものなんだろう」と理解しておけばいい。

ということを思いつつも、それでもなおいろんな不快感を感じる。その不快感は「若者の世界」そのものについての不快感ではなくて、どうやらそういった諸々が、「昔の若者の世界」に浸出しているということではないかと感じる。

かつては、そういったものは気に入らなければスルーしておけば良かったし、それも簡単だった。ところが、そういったものがどんどん「昔の若者」の世界に浸み出して来ている。それを無理やり見せつけられるというあたりに、「彼等には彼等の世界がある」という程度のことではスルー出来ないことがあるように感じるわけだ。

そしてさらに考えてみれば、その「浸出」して来るのは、別に「若者」のせいではない。彼等にそんな力はない。「浸出」させて来るのは、それを浸出させたい「昔の若者」のせいだったりする。もちろんその「浸出させたい昔の若者」も、結局「昔の若者」に過ぎないわけで、ケータイ小説的なものを実はそんなの本気で肯定しているわけじゃない。「こういった感性を理解すべし」的なことを言いながら、あくまでも「コンテンツ化」しているに過ぎない。

そんなことをするのは、要するに儲かるからなわけなのだ。つまり、そういった「昔の若者」が商売のために「今の若者文化」を消費しているという図がモロに見えてしまうこと、また「今の若者」がまんまとそれに乗せられてしまうこと、そしてもういい加減スルーしてしまいたい層にまでそれを押しつけようとしているところ、そういったことへの不快感を感じたりするわけだ。

「昔の若者」の文化や世界観なんてのは、「今の若者」の文化や世界観とそう違うわけじゃない。もちろんいろんな舞台装置は違うのだけど、本質的な違いがそうそうあるわけじゃない。ただ、かつてと違うのは、「今の若者」の文化や世界観を、そうでない世代にまで押しつけて来る「悪い大人」がいるというあたりが違うのではないか。

ケータイ小説的世界観って” への4件のコメント

  1. 「悪い大人」も実は昔からいたんじゃないでしょうか。
    ただその時は我々の方がイマドキの若者だったんで気が付かなかっただけで。

  2. ええ。いっぱいいました。

    でも、若者世代にしか通用しないものを、全世代に押しつけて金にするようなのは、昔はなかったと思います。

  3. あけましておめでとうございます。
    それはそうと、まさか、おごちゃんブログで
    「破壊屋」の3文字を目にするなんて思ってもみなかった。
    地雷映画を避けるため(と同時に楽しむため)
    によく見るサイトです(笑)

  4. 今年もよろしゅう。

    あは。私は教えられて初めて見たんですけどね。細かく見てるなぁと感心しました。私は割りとダメな映画も楽しめるほうなんで、事前に評価を見てからってことはしないんですが。

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