むしろ逆でね?

堀江さんのblogから、池田信夫blogのエントリ。

「すり合わせ」の神話

すり合わせ型のアーキテクチャは日本的組織の要請で採用されたもので、戦略的な最適化の結果ではない。それは高級乗用車のような補完性のきわめて高い特殊な製品には結果的に有効だったが、情報革命によってすべての工業製品は組み合わせ型に移行しつつある。

これ自体は至極当然のことだと思うのだけど、私はむしろこの流れに逆行することが、日本の今後ではないかと思う。

今やPCなんて秋葉でパーツ買って来て組み立てれば作れる。これが「自作PC」と呼ぶものらしい。

私なんぞは8080の時代からマイコンいじりしているから、「自作」とかいう話になると「自分でプリント板起こして」とか思ってしまう。タイミングチャートがどーたらこーたらみたいなので遊んでいたもんだから、「組み立てPCごときを自作PCと呼ぶなよ」とか思う。

私がそんな遊びをする前—って私が小学生の頃なんだけど、その頃はなんとTTLを並べてCPUを作るなんて話が「ラジオの製作」に連載していた。それを「自作」と言ってた人にしてみれば、8080を使うのなんて… と思うに違いない、つーか私も思ったし。

どっちの立場であっても、今の「自作PC」よりもはるかに高い技術を要求されたし、今よりクロックが遅い時代とは言え、高度な擦り合わせが必要だったことは間違いない。実際にそれが出来る会社は少なかったから、出来たものも高いものについた。

その後、どんどんコンピュータはモジュール化されて現代に至るというのは、御存知の通り。TTLを並べてCPUを作っていたDECが、高々組立PC屋に過ぎないCompaqに買収されたのは、いろんな意味で象徴的だった。この例でもわかるように、時代は擦り合わせから組み合わせになったというのは、誰もが納得することだと思う。

ところが、もうちょっと時代が下がると、今度は逆みたいなことが起きている。

たとえば、ASUSなんて組立PC屋用の部品屋に過ぎなかった。1モジュールのメーカに過ぎなかったわけだ。ところが、そのASUSが作ってしまった「ネットブック」なるものに、組立PCメーカは大いに苦しめられている。ノートPC屋やデスクトップPC屋はそのせいで製品が売れなくなってしまって、対抗商品を出すか商品レンジを変更することを余儀なくされた。

あるいは、組立PCのお陰で「組立PCの寄せ集め」になってしまったスーパーコンピュータは、普通の組立PCでない構成要素を使うことで、特色を出すようになった。CRAYのように特殊な内部バスを持つようなものに価値があるようになったのだ。みんなが汎用PC板でスーパーコンピュータを作ってしまったから、汎用PC板で出来てしまうボトルネックを解消する工夫をしたものが優位に立てる。まぁ実際にCRAYが技術的商業的に成功しているかどうかは疑問だったりするのだけど。

そこそこの組立PCであれば、今や技術なんてものは不要だ。中学生が秋葉でパーツ買って来て適当に組合せても、20年前の大型コンピュータをはるかに凌駕するものが作れてしまう。そういったものは、本当に「組み合わせ」で出来てしまう。逆に言えば、こんな技術も何もいらない、単に人手だけで解決する分野であれば、

人件費の高い日本でやる意味はない

1時間1000円の人間が1時間に10台作るのと、1時間100円の人間が1時間に10台作るのでは、どうあがいても1時間100円の方が利益は大きくなるし、価格を下げる余地も出来る。いや、人間すらいらない。1時間に100台作るロボットでも用意すれば、もっと利益は大きくなるし、価格を下げる余地も出来る。こんな世界で働けば、それこそワーキングプアになってしまう。日本で中国やベトナムに対抗してもムダでしかない。ムダなだけならまだしも、不幸への道になってしまう。

だから、そんな「技術不要で組み立てるだけ」な世界で競争することを肯定してしまったら、暗い未来しか考えられない。逆に見たら、「グローバルな水平分業」が通るようになったら、それは

撤退フラグ

なのだ。人件費の高い日本の会社は、そこから撤退するのが正しい。何しろペイラインに乗せることは難しくなって行くのだから。だから、日本が「グローバルな水平分業」に手を出すということは、

日本の発展途上国化

にしかならないだろう。

結局、日本の「工業」は、「大量工員で安く大量生産する」という発展途上国のような形ではなく、「多少高くても高品質のものを作る」しか生きる道はないのだ。つまり、

熟練工に価値のある製品

を作って行くしかない。

もちろん発展途上国でも熟練工は生まれるだろう。だから、そういった人達もどんどん日本の得意とする土俵に載って来る。でも、全員が貧乏になる方向の戦いよりは勝ち目はあるし、頑張りようもある。

「グローバルな水平分業」は工業の原理として正し過ぎるがゆえに、日本では勝ち目がない。とは言え、「グローバルな水平分業」に乗らないからと言って、「スイス時計」のようなニッチな世界しかないわけでもない。成熟した工業の世界ではそうかも知れないが、先端のまだ分業の出来ていない世界ならニッチでなくてもいっぱいある。

10を100にして儲ける世界には「グローバルな水平分業」が必要だし、それが得意とするところだということは確かだけど、0を1にしたり、1を10くらいにするには、まだ水平分業は難しい。逆にそうだからこそ、「コミュニケーションコストの低くて熟練工化が好きな日本人」による「日本国内生産」が威力を発揮するんではないだろうか?

PS.

ん? 池田せんせの日経BPの方の記事を読んでたら、言外に↑のようなことを書いているようにも見えるんだが。

日本企業は「設計思想が主、戦略が従」

そもそも、日本企業の特色を「擦り合わせ」と論じてしまっている点でズレ始めてるのではない?