分裂勘違い君劇場のリンクで、
この彼、読んでいると凄くマジメで努力家に見える。それは賞讃されるべきであって非難すべきことではない。
時々自分でもこんなことを書いちゃいがちなんだけど、「努力家」の類って努力しない人に異常に冷たい。
もちろん努力は賞讃されるべきことだし、みんな努力するべきだということも思う。でも、
「努力」なんて百人百様
なんだよ。そりゃ他人から見りゃ無駄な努力もあるだろうし、もっと効率よく頭使えなこともあるけど、本人は努力しているつもり。あるいはサボってばかりいる奴だって、いろんな危機感がない奴ばかりでもない。どう努力して良いかわからなくって、努力のモチベーションがないという奴だっていっぱいいる。いや、ギャンブルの類にハマって努力してない奴だって、本人は「これで頑張れば」って思っているに違いないよ。
でも、努力して成功した奴は、そういった「無駄な努力」してる奴や、自分にとって努力に見えないことをしてる奴に冷たい。サボるな、ちゃんと努力しろ、努力すりゃ俺みたいになれるぞと言いがち。まぁ私もよくそう思うから、言ってる奴の気持ちもわかる。
でも、冷静に考えてみれば、努力は結果を保証しない。努力は成功確率を上げるかも知れないが、それ以上のものではない。ほとんど全ての「成功」は、
まぐれ
の結果だ。努力したあなたの努力が実ったわけではない。あなたの努力は、高々「成功確率を上げる」ことに寄与しただけだ。いや、それすらも実は怪しい。「未来が幸せであれば、過去の選択は全て正しかったことになる」だけだ。その「結果」は、実はあなたが努力した結果じゃなくて、気が乗らなくてブラブラしていた結果なのかも知れない。人は自分に都合良く因果を理解する。
もちろん「努力」は悪いことじゃない。でも、それは「高々成功確率を上げる程度の寄与」だと思っておくべきだ。そうすれば、結果が悪くても自分を責めて鬱にならずに済むし、
「不幸な人」に冷たくならないで済む
のだ。
末香臭いオマケをつければ、この話は「ヨハネによる福音書」の9章あたりに出てる話と同じ。クドいようだが努力が不要とは言わない。ただ、努力家はその努力がゆえに、高慢にも冷たくもなる。しかし、努力が成果に直結するわけでもない。
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叩かれるの覚悟で言うと
「努力家」っていうのは一歩間違うと
「人格障害」そのものって気もする。
実際、偏執的なところがないと出来ないし。
「障害」と呼ばれるべきかどうかは、単に程度ってだけでしょう。