頭の悪い擬似科学批判

擬似科学批判が旬らしいんだが、ほとんど読んでない。

だから、他人のネタとかぶったりするんだろうけど、自重しないで「擬似科学批判批判」をしてみたい。と言っても、もちろん私は擬似科学批判側なんだけどね。とは言え、「無能な味方は敵より有害」とも思うわけで。

ちょうどいい無能なサンプルがあったので書いてみる。

疑似科学やオカルト… なぜ、だまされるのか?

こーゆーことを言うから、擬似科学がのさばるのだ。

これは正しい。

「目の前で自分の理解を超えたことが起こったとき、超能力と思わずに、なぜ、こんなことが起きるのか、と考えてほしい」と安斎さん。「人間は、だまされやすい」ということを肝に銘じるのが大切であって、一番危ないのは「私だけは、だまされない」という「思い込み」と指摘する。

これが正しいがゆえに、以下の批判がおかしいのだ。

「あの人の言うことだから、本当だろう」という主体性の放棄も、自らの心をだます行為だ。「自分の目でしっかり確かめ、自分の頭で判断する習慣を」と呼びかける。

まずは「お前が言うな」とジャブ撃ち。

科学者に限らず、「識者の意見」というものに意味を見い出している人は、みんな同じ穴の狢だ。いったい世の中の「識者」にどれだけのトンデモがあるか。そして、それの「識者の意見」の間違いを指摘する人がどれだけいるか、あるいはそれを伝えるメディア(!マスメディア)がどれくらいあるか。ほとんどが「識者の受け売り」ではないか?

しかし、それが間違いでもない。なぜなら、

人は自分の知らないことを判断出来ない

のだから、自分が正しいかどうかわからないものは、「識者の意見」を信じるしかないのだ。自分の知らないものを勝手に自分で判断するのと、「識者の意見」を鵜呑みにするのと、どっちが真理に近いかと言えば、たいていは後者なのだ。

もちろん自分が知らないことでも、明らかに論理的に破綻しているものはあるから、そういったものを「自分で判断」するのは正しいだろう。しかし、「論理的に破綻」と言っても「○○の法則により」の類だとわけがわからないものだ。そもそも「○○の法則」がその世界に適用可能であるかは、実はよくわからないものだ。シチューの具材のふるまいを、NS方程式と熱拡散でモデル化出来るかと言えば、それは要求している解のレベルによる。

もし霊が目に見えるのならば、霊そのものが光を発しているか反射しているはず。

目を閉じて、瞼を強く叩いてみるといい。何かが「目に見える」はずだ。

私はそんなことをしなくても、子供の頃から視界に妙な曼荼羅のような模様が「見えて」いる(大人になってかなり減ったが)。そのパターンは時々で変化していて、なかなか不思議で面白い。出来れば写真に撮ってお見せしたいところなんだけど、もちろんそれは私の目玉やら神経やらの加減で「見えて」いるものだから、写真には撮れっこない。と書いてみて、当然ながらこの話を信じる人はそれ程多くはないことに気がついた。何しろ客観的に見せられるわけじゃないんだから、信じてくれという方が無茶だ。

手を暖めた後の水と冷やした後の水では、水の温度を違って感じる。そんなもの当たり前だ。人間の知覚なんてのはそんなものなんだから。でも、水の温度が変わったわけじゃない。

人間の五感は主観的なものなのだ。でも、五感で感じた結果を知覚する。

流行りの「水伝」もそうで、人には「コントロール欲求」というものがあって、結果の評価にもそれが現れがちなのだ。自分の都合のいい結果だけを採用するのは、擬似科学に限らずどこにでもある。そこをつっこまずして「ねーよwww」だけでは、それこそ非科学的だ。

「ささいなことでも、『なぜ』と意識的に問い直してほしい。その背景には必ず理由があるのだから」

この姿勢は正しい。しかし残念なことに「なぜ」に対する答えを聞いてもわからないことは多数ある。「なぜプログラムが動くのか」と聞いてすぐ答えられるプログラマはいない。それを聞いてわかる人も少ない。さらに、そのレベルでの「なぜ」が理解出来ても、「じゃあそれはなぜだ」と聞かれた時、答えられる人は少なくなり、理解出来る人はさらに少なくなる。それがずーっとわかる人でも、量子力学レベルの話になってその次に

じゃあなぜ量子はそうふるまうんだ?

と問われた時に答えられる人は、世の中には一人もいない。「なぜ物事は法則通りになるのか」に答えられる人もいない。そもそも、

この世(宇宙)はなぜ存在するのだ?

と問われたら、それこそ宗教の領域になってしまう。科学というのは、あくまでもそういったメタな存在はとりあえず肯定してしまって、その「結果」だけを論じることしか出来ないわけだ。そういう「科学的手法」の限界というのは、科学が科学であるがゆえに存在してしまう。西洋起源の科学は、「神が秩序をもたらしている」という思想があるのだから、「神の領域」には答えられない。これは本質なのだ。

もちろん「なぜ太陽は東から昇るのか」と問われた時に「神がそう作った」と答えるのは、あまり科学的だとは言えない。でも、「なぜ」を10回くらい繰り返したら、たいていの人は途中で理解が出来なくなるし、さらに繰り返したら「現在の科学では無理」なことになるし、さらに繰り返したら「科学の本質的限界」に到達してしまう。そこでもう1回「なぜ」と問えば、非科学的な答しかなくなってしまう。むしろ、

答えの限界があることが科学

だとも言えるわけだ。

「理由を問い正す」という姿勢は正しい。だけど、その先には理解の限界、現在の科学の限界、科学の本質的限界が存在していることを忘れてはならない。むしろ、そういった「容易に答があるはずがない」ところに「明快な答」がある方こそが、非科学的だと言える。「スピリチャルなもの」は、本来簡単に答えが出ないものに、無理やり答えを出してしまう方法でもあるからだ。

そういった視点で評価すると、世の中のたいていの「擬似科学批判」は非科学的だ。繰り返すが、

無能な味方は敵より有害

なのだ。擬似科学を批判したかったら、もっと「科学的」にやって欲しいもんだ。

頭の悪い擬似科学批判” への1件のコメント

  1. なるほど。
    疑似科学批判が非科学的だとは考えたことがありませんでした。
    答えの限界以上に、答えの限界の範囲内の観測値や、数式の緻密さや、フェルミ推定は、とても安心させてくれます。
    数のない科学しか知らない頃は不安ばかりでした。
    身近なものに数を当てはめて想像する楽しみを教えてくれた科学は素晴らしいと思います。

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