「ニコ生」を見た

初めて「ニコ生」を見た。

なんつーか私は「テレビって決まった時間にテレビの前に縛りつけられるから嫌い」と思っていて敬遠してたんだけど、まぁなんとなく。とか書くと蹴り出された人に悪いか。

「縛りつけられる」ってのは、ビデオの類で解決されるものでもなく、要するに長時間の動画に抵抗があるからなんだけど、その不快感を超えて凄いと思った。つーか、

技術とその未来に涙したのは初めてだ

その「涙」は「感涙」という奴だ。

「ニコ生」はテクノロジー的にはどうってことはない。要するにストリーミングに字幕がつくだけだ。もちろん、大負荷に対応するようにとか、リアルタイムで字幕をつけるとかってのは、実装も運用も大変で誰にでも出来ることじゃないけれど、身も蓋もない言い方をすれば、

UStreamのでっかい奴

でしかない。大変なのは「でっかい奴」ってことだけ。何度も書くようだけど、「だからダメ」というつもりはない。それはそれで凄いんだけど、それは要素技術だ。

じゃ、なんで「涙した」かと言えば、こういったものの持っているとんでもなさだ。

何がとんでもないかと言えば、まず第一に

尺が狂っても痛くも痒くもない

ということだ。これは、地上波だろうが衛星だろうが、「放送」は絶対に敵わない。何しろ普通のテレビ放送ってのは、タイムテーブルがしっかり決まっていて、その中に納める努力をしなきゃいけない。早く終わることも延びることも許されない。

今日のみたいに「やり直し」があったりすると、「放送」の場合はその後で「巻き」を入れなきゃいけない。もちろん生ではそんなアクシデントがあるのは折り込み済みで、「巻きしろ」を作っておくものなんだけど、そういう毒にも薬にもならない部分はつまらないわけで、どうやっても番組自体が間延びしてしまう。そうならないようにきっちり作ると、アクシデント耐性が低くなる。

ところが、「ニコ生」みたいなのは、そこまで必死になる必要がない。もちろん個人のやっているネトラジみたいにダラダラやるのも勘弁だけど、「尺を合わせる」ことに必死になる必要はない。「やり直し」があれば「まーライブだからしょうがないよね」と理解しつつ見続けられる。気にしなきゃいけないのは、内容が間延びすることとか、「会場」のレンタルとかそういったことくらいなもので、地上波テレビみたいに「1秒でも延びると事故」なんてことは起きない。

チャンネル数はいくらでも作れるとか、後から録画を見れるとか、そういったのも凄いことは凄いしある種革命的でもあるんだけど、そんなものは従来のメディアでも出来たり、出来て当然だったり、自助努力でどうにでもなるからそれ程インパクトはない。それよりも「尺の制約」が緩くなるというのは、いろんな可能性を感じさせてくれる。

「尺の制約」が緩くなれば、生放送のかかるコストが下げられ、かつ品質を上げやすくなる。これは別に「生放送」でなくても、放送全般に言えることだ。今までのテレビ放送が尺を合わせるために払って来たコストや犠牲が全く不要になる。これは雑誌の連載だと行単位の精度を要求された原稿が、web連載だと「だいたいこれくらいで」という程度の精度で良くなったのと同じだ。もちろんそれに頼ってダラダラやるとつまらなくなるけど、「必要なら必要なだけ延ばせる」というのはテレビとしては革命的だ。

尺合わせは技能みたいな部分があるから、そういった技能を不要とするということは「生放送」ひいては「放送」の敷居は一気に下がる。そういった技能者を抱えた「マスメディア」でないと出来なかった「放送」がカジュアルになり、何でも生放送をする機会が作れる。もちろんそんなことはUSTで出来たことだけど、もっと大きな規模、たとえば「○×ライブ」の類であっても少スタッフでも出来るわけだ。

仮に「ニコ生」がどんどん増えてしまって、視聴者が生を見れなくなっても、録画もあれば飛ばすことだって出来る。

さらに、「ニコ動」なんだからコメントもつけられるし、それがうっとおしければ消すことも出来る。お陰でダラダラした部分でも、自由にヤジが飛ばせる。退屈しなくて済む。いろんな意味で時空を超えたメディアになった。ライブを見ながら隣りの奴とgdgd会話するとか出来てるわけだ。本当のライブでそれをやれば迷惑だし、気の合う奴と出掛けないとそれも出来ないけど、ニコ動は迷惑のこともあまり心配しなくて良いし、話相手はいくらでもいる。

ここからいろいろ可能性を考えて行って、また同じようにテレビ放送の未来を考えて行ったら、

早晩テレビ放送は不要になる

とまで思ってしまった。

いや、もちろんまだまだなのはわかる。「ニコ生」は高々1万人しか収容出来ないし、帯域の消費のしかたはハンパない。「番組」だってイマイチだったりもする。それはニコ動の他の部分の「不足」と大差ない。あれが足りないこれが足りないと言い出せば、いくらでも足りない部分は挙げられるだろう。

しかし、既にもうテレビを超える方向は見えてしまった。「超える」のだ。「代替する」んじゃない。これは仮にニコ動が潰れるようなことがあっても、他の誰かがその先に行くだろう。要するに「0を1にする」部分は終わってしまったのだ。後は、金とか技術とかという、比較的解決しやすい部分が残されているだけだ。そりゃ当然それらも楽じゃないし、道は遠いのはわかるが、やめずに歩めば、いずれは目的地に着くというところまで来てしまったのだ。

そういったことを思いつつ見ていたら、比喩的表現じゃなくて本当に目頭が熱くなり涙が出た。テクノロジーの進歩に涙したのは初めてだ。陳腐かも知れないが、やっぱり世の中は動いている。それも、そんなに悪くない方向に動いている。

PS.

「テレビがそれを実現したら」ってコメントがあったのだけど、これは太陽が西から昇ることを仮定するようなことだ。なぜなら、テレビ放送には時間、帯域、方式の制約がある。字幕を入れることまでは可能なのだけど、「尺を無視してお手軽生放送」までは無理なのだ。コメントのところまでは、「なんでテレビでもやらないかなー」って思ったんだけどね。