まぁタイトル通りの話なんだけどさ。
これは「群集の叡智」なるものに私が懐疑的になる理由でもある。
ネットを上手に使うには、嘘を嘘と見分けるスキルが必須だというのは、まぁ了解事項だろう。それはもう言われる前からわかってるんだけど、正直そんなものに疲れないか?
自分のわかっている世界であれば、嘘を嘘と見分けるのは容易だ。でも、そんなもの見分ける暇があったら見る必要なんてない。だって、わかってるんだから。
自分のわかっていない世界であれば、嘘を嘘と見分けるのは不可能だ。何が真実かわからないから外部の知識が欲しいわけだから。
そうしてみると、「嘘を嘘と見分ける」ことが要求されて、それでも困らないということは、自分の知っている世界について新しい知見を得ることくらいしかない。その程度にしか使えないものに時間をかけるのは馬鹿げている。
たとえばこれが、「これは嘘です」と書かれている場所であれば、そこに書かれているものはネタとして読めば良く、楽しけりゃそれでいい。bogusnewsはそこに価値があるし、嘘だと思って楽しんでいればそれでいい。明らかな「ネタブログ」はそういったもので、それはそれでいいわけだ。
2ちゃんねるはそこでグダグダと会話をして楽しむ場だから、そこに混ざれればそれでいい。混ざるからにはそれなりの前提知識が必要だから、嘘を嘘と見分けるスキルが要求されるくらいが、ちょうどいいフィルタになる。
Wikipediaには結構嘘が含まれているとは言うけど、そこは「真実」の記述を目指すという共通認識があるから、嘘やネタの類は早晩正される。発展途上のエントリは情報の精度が低いことが多いけど、まぁ「Wikipediaだから」と思って読む分には害はない。自分の知らないこと、つまり自分では嘘が嘘と見抜けないことであっても、過信盲信の類をしなければ大丈夫だ。
困るのはこんな感じではっきりしていないものが少なくないということ。特に、「ほとんど唯一の情報源になってしまっているのに、真偽がよくわからないもの」とか、そういったものからの二次情報しかないもの。たとえば凄く尖った世界での新技術の類だとか、ごく一部の人しか知らない新製品の情報、あるいはチベット情勢のような情報源が限られているもの。こういったものは、真偽を確かめるのも容易じゃないし、分野によってはどうやって真偽を確かればいいかよくわからないものもある。
でも、実は「情報」として価値があるのは、この辺の領域のことだ。最初の方でも書いたように、既に知っていることや常識化してしまったものは、情報としての価値はない。知らないことを知ることに、情報の価値があるのだ。
他方、「表現の自由」ってのがあるから、「嘘やネタを書くな」とか「嘘やネタはそれとわかるように書け」とか言うのはナンセンスだ。だいたい、本人はマジメでも結果として嘘やネタになってしまっているものなんか、どうしろと言うことも出来ない。何度か書いているように、ネットには何を書いてもいいのだ。
だから、こいつらを両立させようと思ったら、たとえば何らかの
フィルタシステム
が必要だということがわかる。真実が欲しい時にはそのように、ネタが欲しい時はそのように作用してくれるフィルタだ。
ところが、どんなものであれフィルタというのは元の情報を歪める。「多数決」をベースにするフィルタを使えば「真実の少数」を見落すことが起きるし、「真実の少数」のために少数意見を重視すれば、ノイズばかりを拾うことになりかねない。この辺の気持ちは、信号処理や画像処理のことを思えばわかると思う。「対象物の事前知識なしに元の情報を歪めないで必要なものだけを都合良く取り出すフィルタ」みたいなものは理論的にも不可能だし、それに近いものを構成するのも容易ではない。
とか考えると、どうしたらいいんだということになるけど、結局のところ「嘘を嘘と見分けることが出来ない人はネットを使うのは難しい」なんて言葉は、
ネットには有効な知識はない
と言っているのと同じだということにるのはわかると思う。
フィルタリングを行うことによって嘘を適当に遮断するのも、「嘘を嘘と見分ける」行為の一種じゃないかなぁと思います。情報そのものに対して自ら真偽の判断を加えなくても、どのフィルタを使うか、という判断をしているならば、間接的に真偽の判断を行っていると言えるんじゃないでしょうか。
そのフィルタが期待するように効いてくれないというのが問題なんです。また、どのフィルタを選ぶべきかという指針が得られない。
この問題は信号処理や画像処理の入門を読むと、なんとなく似たものを感じると思います。
>信号処理や画像処理の入門を読むと
ふーむ、そういうものですか。どっちも興味はあるけど知識はない分野だなぁ。もしおすすめの入門書があったら教えて頂けると嬉しいです。
入門書については、
http://www.nurs.or.jp/~ogochan/essay/archives/1075
を見て下さい。
私は他人が見ると呆れるほど、「入門書」を買うんです。
> Wikipediaには結構嘘が含まれているとは言うけど、そこは「真実」の記述を目指すという共通認識があるから、嘘やネタの類は早晩正される。
問題は、編集している人間にとっての「真実」が往々にして信用ならない場合があるわけで。
たとえば、慰安婦とな南京事件といった、政治的に微妙な項目を編集してみると分かりますが、
日本では明らかに虚構であるとされる項目を直しても、数十分、下手をすれば
数分以内に戻されてしまいます(今は編集合戦でロックされていますが)。
「何が真実か」というのは、なかなか哲学的な課題ではありますが、どんな方向であれ真実を求めるという姿勢はあるわけで。「面白ければネタでもいい」ではないところが重要かと。
「立場によって矛盾する真実」なんてのは、併記なり編集合戦なりすりゃいいのです。少なくとも「真実」を書くという姿勢があるかないかは大事だと思います。
タイトルから、てっきり嘘を嘘と見分けるのに疲れたので、嘘も本当も合わせて飲み込もう、という展開かと思ったんですが、フィルタリングの話だったんですね。
そもそもネットで収集する情報のうち、『本当に真実である必要性のあるもの』はごく限られていると思います。であれば、その情報の正当性の調査に時間をかけるのであれば、そういった観点(解釈)もある、で飲み込んでしまえばいいかも、とかとか。
その真偽によって、自身に直接的被害(金銭、精神面とも)が出るとき以外はもう判断するのを辞めてみたり?
とか考えてみるのも楽しいのですが、全く違う話になってしまいましたのでこのへんで(^^;
> ごく限られている
もちろんそれはそうですけど、「ネットからの情報」の量がある程度を超えてしまっているので、「ごく限られている」であっても処理能力が超えているということです。
「ネットはそんなもの」と割り切る限界を超えてるのではないかと。